春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十

 録音には本稿を読んだ読者の方(『信の哲学』上巻を四度、「身代わりの愛の力能」(「方舟」61号)を七度読まれた医師の方)から適切な感想を頂きそれを紹介しました。なおヴェーダー『山上の説教』(峰重訳 日本キリスト教団出版局、2007)における山上の説教と倫理の断絶を紹介しました。ヴェーダーの説を文章でも紹介しておきます。「神支配はあらゆる報復の終焉を
もたらすものであり、そしてそれゆえに、すでに今、応報を終わらせることが適切である。この異質性は、一切結果に方向づけられていない倫理がここに現れていることと関係している。その倫理は、抑圧者がどの程度そこから利益をうるかという点は気にかけていない。一方でそれは、良い結果を伴わずに行為を動機づける。その意味でこの倫理は、効果がないゆえに不正であるという抗議に先んじている。行為はこの世におけるその目的に基づいてではなく、神支配におけるその起源に基づいて考察される。これは倫理的なもののあらゆる終局化の終焉である。・・・イエスは神の要求をまったくのところ、神観念から「今」へと突入してくる神支配から描くのである。・・このことはこの世的にも肝に銘じておくべきことのように私には思える。あまりに多くの悪事が、立派な木j的のためにすでに実行されている。この目的に方向づけられた倫理は、なおこの世の尺度へと組みいれられ得る。立派な目的にではなく、ただ善そのものに方向づけられた倫理は異物であり、異物のままなのである。問は、現代の世界において、そもそもそのような異質な倫理にどんな意味があるかということだろう」(嶺重訳 p.164-65)。山上の説教は倫理的なものの終焉ののちに位置づけられるとする異質性の主張は、本稿における「信じる者にも信じない者」にも理解できる倫理地平をイエスは明らかにしているという立場とまったく異なる主張である。本稿では「福音」の独自性は確保されるが、それとの関連で他の三つの種類のイエスの語りが展開されていることまた実践的な効力を持つことを論じました。2024年3月1日


穢れ

 清さとの対比されるもの、その対義語は「穢れ」である。眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。悪霊の存在を認めない者も悪い人間が一層悪くなることを認めることができるなら、一つの説明として理解できよう。例話によれば霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。

 「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。これは人生の空虚感として誰もが何らか経験していよう。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。現代人は自らうみだしたテクノロジーをもはやコントロールできず、手をこまねいてその人工的産物の特異点までまたその自然的影響による破局を待っているように見える。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。自らと人類の心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。

 パウロは心に葛藤を引き起こすように勧める。「わたしは律法は霊的なものであると知っているが、他方、わたしは肉的なものであり、罪のもとに売り渡されている。というのも、わたしが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわたしは認識していないからである。というのも、わが欲するところのもの[霊的な律法に従うこと]を為さず、憎むところのもの[死]をわたしは作りだすからである。しかし、もしわたしが欲せざるところのものを作りだすなら、律法にそれ[律法]が善きものであると同意している。しかし、今やもはや、わたしがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、わたしは知るからである。というのも、善美を欲することはわたしに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわたしは作らずに、欲せざるところの悪をわたしは為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわたしが為すなら、もはやわたしがそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7:14-20)。この発見は聖霊の発見との対比において認識されることがらであろう。空虚な者は「その霊によって貧しい者」となるかがその分水嶺となる。

 心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。

 しかし、清さ、混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。「良心の発動なぞくそくらえだ、善も悪も嘗め尽くせ」。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「なぜ私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、あることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為するということになる」[i]

 確かにわれらは屁理屈をこね、良心の発動を紛らわせようとする。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。

 しかし、身体においても痛みに気づかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、或いはそうでなくとも内省により自らの過去に思いを致すとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。この説教は霊に訴えることなくまた「善人と悪人」の判別以前、道徳以前のことがらとして光や心や肉体の痛みのような自然的事象に神の憐れみを見る。自然事象が神の支配のもとにあること、この点については、イエスはきわめて自覚的である。

 

信の根源性―穢れからの悔い改め―

 或る時、イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものに触れたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。

 イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。・・万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isa.6:3,8:13)。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに不十全性、分裂そして罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して一切を知る神にまみえる。神の存在を認めない者も、一切が自己完結的な明徴さにおいてある場合に、ただし一切を見通せない肉の弱さにおいてある人間には事柄そのものが次第に明らかになるという想定、シミュレーションのもとで、倫理学を構築することはありうることである。この想定も、いずれ人間も認知的に十全な者となるという一種の信により支えられている。

[i] ニーチェ『人間的あまりに人間的 Ⅱ』「漂泊者とその影」五二、中島義生訳、三一五頁(ちくま学芸文庫 一九九四)。ただし、パウロは良心の内容が「幼少時代のわれわれに、・・かつて尊敬したり恐れたりした人々が理由なく規則的に要求したものの一切」という見解には同意しないであろう。彼は「共同―証人」に神を挙げることもあり、自らの刷り込みによるものではないとする。

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