春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十一

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十一

(録音では信仰と憐みの関係を解説しています)。2024年3月3日

「憐れむ者たち」

 イエスはその心によって清く、憐み深かった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.14:14,20:34,Mak.1:41、6:34)。イエスは羊飼いのいない羊のように彷徨って他に寄る辺なく彼についてくる群衆に「腸(はらわた)(スプランクノン)」即ち心の底から身体的反応を伴い苦痛を感じた。そして彼は群衆を救いだすべく神の国について「多くを教えた」と報告されている。「祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである」。心清い者のみが憐れむ者となる。

 福音書のイエスの言葉に、小さな者への憐み、愛が福音のもとに生きている証となるとされる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから君たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。君たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。君たちはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらはあなたが飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」(Mat.25:34-45)。

 これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、その状況は天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。「憐み(eleos)」は一般的にその当人に相応しくない困窮を蒙ったひとに向けられる感情である。アリストテレスは「憐み」を定義して言う。「憐みとは、破壊的な或いは痛ましい悪がそれに相応しくないひとに(tū anaxiū)降りかかっているように見えることに伴う一種の苦痛である、その悪しきことはそれが近づいているように見えるとき、自分や周囲の誰かが蒙ることを自ら予期するところのものである」(Rhet.II8,1385b13-15)。この人間同士の間で生じる憐みが生起する文脈は自然界のことがらであれ人間同士のことがらであれ悪しきことがそれを蒙るに相応しくないひとに降りかかっている場合に生起する感情である。その憐みの感情実質はある種の痛みを伴うとされる。

 イエスが何故彼についてくる群衆を「深く憐れだ」かと言えば、人間は、本来、愛に満たされている天の父の子であり、それに値しない、相応しくない(anaxios)悲惨な現状を目にしたからであり、その憐みは痛みを伴いつつ同情、共苦、共感として抱いたのであった[i](Mat.9:36,cf.Mak.1:41,Mat.14:14)。イエスが山上の説教を生命をかけて生き抜いたのは「天の父の子」である同胞になんとか神の国の消息を伝えたかったからである。

 イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言において明らかなことは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。ひとは一度でもこのような視点をもったことがあるかが問われる。誰か知らない人々が悲惨な状況にある人々に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしに食べ物をくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうかが問われる。キリストの受け止め方が自らのものにならないということは、自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。少なくとも「叡知の刷新により変身させられよ」における変身とは態勢そしてパトスにおいてもキリストに似た者になることに他ならない(Rom.12:2)。パウロは「わたしが生きているのではない、キリストがわがうちにあって生きている」とまで言う(Gal.2:19)。ひとの心的態勢はどこまでも途上であり、イエスに似た者になるにつれて、神のみ旨を実現していくことになる。そうすると、イエスの(1)自己言及は間接的にその都度われら個々人を介することになる。栄光と悲惨、光と闇、成功と失敗、知と無知、善と悪、コントラストによりひとは憐みを知るに至り、隣人が自らと等しさにおいてあることを知る。イエスにおいてはこの憐みが癒しなどの不思議な業を実現させた、ただし相手に信がないときにはその憐みを遂行できなかったとされている(Mat.8:58,Mak.6:5)。憐みは自ら愛されたことの信を前提にしておりまた信頼関係のないところでは肯定的な力が遂行されるないからである。魔術師シモンが自らの力の誇示の為にペテロから奇跡をおこなう力を金で買おうとしたが、そのような心にはイエスの心は宿らない(Act.8:9-24)。山上の説教はイエスの清さにふさわしい。他の誰が語っても偽りになってしまうであろう。真の人間においては山上の説教を生きることが人間にふさわしい、神のみ旨がそこにあらわされているからである。

[i] Kittel,Theological Dictionary of New Testament VolII.p.477 eleos (Stuttgart 1964).

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