春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その九

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その九

 (録音では感情の文法そして良心の解説がなされています)2024年2月29日

「悲しんでいる者たち」

 イエスは友ラザロの死にあってまたオリブ山からエルサレムの陥落の日を思い「涙を流した」(John.11:35,Luk.19:41)。「祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである」。感情の文法によれば、愛しいものを喪失するその文脈において悲しみを感じる。この喪失感を味わうことのない者は愛を知らない者である。「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」(パスカル)のであり、生きることそのものから遠ざかってしまうであろう。

 

「柔和な者たち」

 イエスは柔和であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を担ぎあげ、そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は善きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨(さまよ)うひとびとを招く、彼の善き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信・信仰のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。「祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。地を受け継ぐとは先祖の土地を継承することであるが、ここでは天の国を受け継ぐことを意味していよう。「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業(しぎょう)を受けました」(Ps.16:6)。

 イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、天に招きいれられることであろう。その彼はこの地上で栄光を捨てひととなったその低さ、そしてそれに基づく弱小さへの憐みと柔和を生き抜いた。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。キリストと共に担う軛と荷とは自らが神の子であるとの信仰により柔和と謙遜のうちに歩むことである。キリストの低さと共にあることによりこの世とその比較の世界から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさが自由にされた生に力を与える。イエスにより誇りが取り除かれ「柔和の霊」を受け取った者は謙遜を学び自らより弱小者への憐みを抱き、義に飢え渇く者となり、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者となる(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 

「義に飢え渇く者たち」

 イエスは義に飢え渇く者であり、義のために迫害される者であった。「祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。・・祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである」。彼は「君たちの義がパリサイ人のそれに優らなければ天の国に入ることはできない」と律法の義・正義の厳粛さを揺るがせにせずに、その正義は愛敵に至って初めて満たされると主張した(5:20)。愛敵において「神が完全であるように、君たちは完全な者となるであろう」と語られている(5:48)。義に飢え渇く者とは正義、公正、等しさの分配の不在に苦しむ者たち、例えば、戦争や犯罪等による理不尽な死等の経験者とその加害者たちがそうである。預言者は為政者の不義な圧制のもとにありながらも、神の言葉を預かり審判と解放の希望を語るが、それ故に洗礼者ヨハネに至るまで迫害された。このような正義の実現を求めることとは別に、それとは異なる義を求める者たちがいる。彼らは敵を愛することのできない自己を見出し、その良心の咎めを感じるその霊によって貧しい者、義に飢え渇く者であり、祝福される。預言者的な義人と共に、二心や私心なく心清く、真理を求め正邪を明らかにする信念をまげない者たちの祝福が語られている。

 

「その心によって清らかな者たち」

 第六福の「その心によって」清らかな者たちも、「その霊によって」貧しい者と同様の与格構文であり、統一的な行為主体を表現している。心の清さは心に二心、三つ心がないことであり、心が一つに秩序づけられている。「祝福されている、その心によって清らかな者たち、彼らは神を見るであろう」。イエスの復活は心の清さの結果であり、永遠の生命を得たのは彼が天の父の子の信仰に生きたその清さによるものである。復活は、再び死ぬ蘇生とは異なり、人類の歴史においては彼にのみ生起したため、再現性はなく信仰によってしか突破できないことがらである。

 イエスは言う。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。君たちは、神と富とに仕えることはできない」(6:24)。「その心によって清い者」とはその心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者とされている。「灯をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。君の身体の灯は目である。目が澄んでいれば、君の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、君のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし君の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、灯が明るさによって君を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲から仰がれる。そのように「世の光」はこの世界をよく見えるようにすることにより天と地を繋ぎ支え、導く(5:14,cf.Phil.2:12-15)。

 心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは悲惨のただなかで仰ぎ見る、「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。清い者はその心の分裂から解放されている。「君たちのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も君たちに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。天の父の嘉みを得るか否かは、心から隣人を赦し愛しているかにかかっている。その者は分裂がなくその心によって清くされている。

 

良心

 かくして、清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。「良心」は「共知(sun-eidēsis, con-science)」である。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。これが共知であるからには、ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。最終的には良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座であり、神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが君たちの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。

 山上の説教を語ることをイエスに動機づけるものは人々の「良心」の可能性への彼の信である。彼は次第に形骸化して伝承されるユダヤ教の伝統の改革者として、神の言葉に生命を取り戻し、端的に神の意志、み旨を語り掛ける。「天にいますわが父のみ旨を行う者が天の国に入れていただくことになる」(7:22)。「み旨・み心(thelēma)」とは神の人間に対する意志、人間認識であり、神が価値あると看做すものが人間にとっても価値あるものである。「君の宝があるところ、そこに君の心もある」(6:21)と語られるように、たとえひとは自ら追い求める美や善きものの価値を主張したとしても、その宝が次第に神のみ旨と合致するようにイエスは教える。彼は祈りを教える、「あなたのみ旨が成りますように、天におけるように地の上でも」(6:10)。

 天の父は御子をわれらに無償で捧げている。それ故にキリストが共にいることを心から焦がれるかが問われている。心がキリストのように清くなることを宝とするかが問われている。そしてそこではものごとが良く見え、最後のところ天の父に守られ導かれていることをも知ることができ、感謝し栄光を神に帰する。この一貫性こそ神に嘉みされる。清い者は神を見るであろう。

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