黒崎幸吉記念資料室

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登戸学寮内には創設者の黒崎幸吉を記念した「黒崎幸吉記念資料室」を設けています。後世に伝えるため、黒崎幸吉の著書や関連資料などが大切に保管されています。

「黒崎幸吉記念資料室」の蔵書を中心として学寮内に所蔵する和書、洋書(英語、ドイツ語)からなる聖書学、神学関係の資料はこちらから検索することができます。

なお資料閲覧などご関心がある方は登戸学寮までお問い合わせください。

 登戸学寮内には創設者の黒崎幸吉を記念した「黒崎幸吉記念資料室」を設けております。黒崎幸吉の著書や関連資料などを後世に伝えるため、大切に保管しております。資料閲覧などご関心がある方は登戸学寮までお問い合わせください。

黒崎幸吉 年譜

事歴

1886年(明治19年)
 5月2日、山形県鶴岡町(現在鶴岡市)に士族黒崎与八郎と母滝の二男八女の長男(第五子)として生まれる。

1893年(明治26年、7歳)
 4月 朝暘尋常高等小学校第四分教場入学。小学校時代に孝経、論語、等の経書の素読を学ぶ。

1899年(明治32年、13歳)

 4月 私立荘内中学校(後に山形県立荘内中学校)に入学。撃剣部に入部。

1903年(明治36年、17歳)

 5月 第一高等学校生徒藤村操の投身自殺に衝撃を受け、人生の意義を考えることになる。

1904年(明治37年、18歳)

 2月 (日露戦争起こる)3月 荘内中学校を卒業。式で答辞を読む。7月 第一高等学校に入学、西寮五番に入る。剣道部と端艇部に入部。

1905年(明治38年、19歳)

 夏  東京YMCAのフィッシャー主事と会う。50年におよぶ交流の始まり。9月 岩元禎のヒルティ『幸福論』を受講。 

1907年(明治40年、21歳)

 7月 第一高等学校を卒業。東京帝国大学法科大学政治学科に入学。

1909年(明治42年、23歳)

 10月 内村鑑三を師とする柏会が誕生。毎日曜、今井館での内村の集会に出席する。

1910年(明治43年、24歳)

 4月 チフスにかかり、駒込の避病院に入院。

1911年(明治44年、25歳)

 7月 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。8月 住友総本店に入社、経理課主計係に配属。高木三郎の三女寿美と結婚。9月 大阪、その後兵庫県精道村に転居、自宅でプレマス・ブレズレンの人たちと家庭集会を始める。

1912年(明治45年、26歳)

 5月 長女美与生まれる。8月 住友家の補導係を命じられ、東京勤務となる。

1914年(大正3年、28歳)

 7月 長男信雄生まれる。

1915年(大正4、29歳)

 5月 住友寛一に随行し、渡米。

1916年(大正5年、30歳)

 12月 愛媛県新居浜の住友別子鉱業所に転勤。自宅で家庭集会を開く。

1917年(大正6年、31歳)

 4月 矢内原忠雄、住友別子鉱業所に勤務、家庭集会に参加する。5月 次男義雄生まれる。

1918年(大正7、32歳)

 5月 エマオ会主催の「基督教平信徒演説会」で講壇に立つ(最初の公開講演)。

1919年(大正8、33歳)

 4月 住友製鋼所に転属、兵庫県打出村に転居。家庭集会「蘆屋会」が黒崎宅で開催される。

1920年(大正9、34歳)

 12月 二女康生まれる。

1921年(大正10年、35歳)

 1月 妻寿美が前年12月に罹患したインフルエンザにより死去。召命により伝道を決意し、会社に辞表を提出する。2月 上京して内村鑑三の助手となり、畔上賢造の隣家に住む。10月 『霊交』の編集を担当する。12月 処女出版の訳書『ルーテル加拉太書註解』を刊行。

1922年(大正11年、36歳)

 3月 『聖書の読み方』を刊行。9月 欧州留学のため横浜港を出帆する。11月 ベルリン大学に入学。ベルリン滞在中に『皇后ルイゼ』を翻訳する。

1923年(大正12年、37歳)

 11月 チュービンゲン大学に移り、カール・ハイム教授と親交をもつ。12月 ハイムにドイツ語で記した自己の回心記を贈る。

1924年(大正13年、38歳)

 5月から2か月間、ジュネーブに滞在、カルヴィン研究に没頭する。新渡戸稲造、前田多門、川西実三らと交友を深める。7月 イギリスに渡り、各地で集会に参加。セリオーク・カレッジ やエジンバラのニューカレッジに入学する。12月 帰国の途に就く。

1925年(大正14年、39歳)

 1月 ポートサイドで下船し、聖書を携えパレスチナを旅行する。3月 神戸港に到着、鶴岡市に帰郷後、鶴岡市八日町に居を定める。黒崎宅・諏訪熊太郎宅で聖書集会を開く。5月 佐々木かつ(光子)と結婚。6月 マシューズ著『人種の衝突』を翻訳し刊行。12月『パレスチナの面影』を刊行。

1926年(大正15年、40歳)

 3月 三女愛生まれる。月間伝道誌『永遠の生命』を創刊。4月 山形高等学校の非常勤講師となり、週2日、ドイツ語・英語を講じる。

1927年(昭和2年、41歳)

 4月 三男潔生まれる。『放蕩息子の帰還』を刊行。春から毎週日曜日の夜に、山形高等学校の学生3名と読書会を開く。8月 三女愛病死。11月 C・H・M著『創世記講義』を翻訳し刊行。日英堂主人横尾留治と会い、『註解新約聖書』の執筆を引き受ける。

1928年(昭和3年、42歳)

 1月 父研堂死去。黒崎訳『ヒルティー宗教論文集』上巻を刊行。3月 山形高等学校講師を辞任。5月 『社会問題と基督教』を刊行。6月 『我が国体と基督教』を刊行。四男薫生まれる。『内村鑑三先生信仰五十年記念キリスト教論文集』に「カルヴィンの教会観」を執筆。病状が進んだ江原万里にかわって伝道誌『思想と生活』を編集する。12月 『山上の垂訓講義』を刊行。

1929年(昭和4年、43歳)

 7月 『註解新約聖書 コリント前後書』を刊行。10月 『基督教に対する誤解』、『神を知る道』を刊行。

1930年(昭和5年、44歳)

 1月 四女恵美生まれる。2月 『註解新約聖書 マタイ伝』を刊行。3月 内村鑑三死去。直ちに上京し告別式に参列する。5月 体調がすぐれぬまま、東京での内村鑑三記念講演会で講演する。6月 『ジョン・カルヴィン伝』を刊行。胸部疾患のため1年間の休養を医師から宣告される。7月 藤井武死去。病床にあるため葬儀に欠席する。8月 『偶像の数々』を刊行。12月 『註解新約聖書 ヨハネ伝』を刊行。

1931年(昭和6年、45歳)

 3月 『永遠の生命』第61号より付録「新約聖書ギリシヤ語講座」を始める。3月と4月 内村鑑三1周年記念講演会が東京・大阪で開催、療養中で講壇に立てず。5月 『カルヴィンの教会観』を刊行。関西永住を決意。8月 郷里を引きあげ、新居に移る。『奴隷の生涯』を刊行。10月 大阪帝大医科学友会記念館で黒崎聖書研究会を始める。9月の満州事変をきっかけに、『永遠の生命』に時局への批判を載せる。12月 『註解新約聖書 ヘブル書・ヤコブ書・ペテロ前後書・ユダ書0を刊行』。五女志津生まれる。

1932年(昭和7年、46歳)

 5月 東京で黒崎主催の聖書講演会を開く。10月 大阪の聖書研究会終了後、京都帝大学友会間でも聖書研究会を1939年まで開く。11月 『教会の本質』12月『新約聖書ギリシヤ語文典』を刊行。

1933年(昭和8年、47歳)

 7月 山中湖畔に部屋を借り、一夏『新約聖書略註』の執筆に没頭する。8月 江原万里死去。10月 五男勇生まれる。12月 『基督教の更生は日本より』『基督教の本質』を刊行。

1934年(昭和9年、48歳)

 3月 月刊『ギリシヤ語聖書研究』を創刊、共同執筆者となる。7月 第1回『永遠の生命』誌読者夏期聖書講習会をを山中湖畔で開く。8月 『潔めの教理の誤謬』を刊行。10月 黒崎、浅野猶三郎、畔上賢造、石原兵永で分担した黒崎編『新約聖書略註』を刊行。12月 『註解新約聖書 ロマ書・ガラテア書』を刊行。

1935年(昭和10年、49歳)

 9月 六女千恵生まれる。10月 『ガラテア書講義』12月『註解新約聖書 ヨハネ黙示録及書簡』を刊行。

1936年(昭和11年、50歳)

 2月 二・二六事件が起きる4月 『永遠の生命』第122号に載せた二・二六事件の感想「『その頃』の所感」により、最初の発禁処分を受ける。7月 山中湖畔に建てた山荘「無有庵」に逗留し『旧約聖書略註』の執筆に没頭する。

1937年(昭和12年、51歳)

 3月 『ヘブル書講話』を刊行。7月 盧溝橋事件が起こる。夏期聖書集会は、会期中に会員の家族が招集されたため、中途での帰宅や、警官の出入りなど緊迫した講習会となる。8月 二男義雄病死。12月 『永遠の生命』第142号の「昭和12年を送る」が反戦的として発禁処分となる。

1938年(昭和13年、52歳)

 1月 七女和喜生まれる。5月 神戸市の兵庫県会議事堂でも隔週聖書研究会を開く。京都での聖書研究会も隔週に変更する。6月 畔上賢造死去。9月 『永遠の生命』第151号の巻頭言「洪水の教訓」で当局の言論統制を批判したため、発禁処分となる。12月 『旧約聖書略註』上巻を刊行。

1939年(昭和14年、53歳)

 1月 『永遠の生命』第155号の巻頭言「地球を動かす力」が反戦的として、発禁処分となる。次第に官憲の干渉が激しくなる。4月 黒崎研堂一族の親睦通信誌『木立』が刊行される。6月 六男稔生まれる。9月 座骨神経痛が悪化し、山梨県積翠寺温泉に転地療養する。『註解新約聖書 使徒行伝』を刊行。11月 神経痛が完治せず、京都・神戸の聖書研究会を解散、自宅で甲南聖書研究会・学生基督教研究会を始める。

1940年(昭和15年、54歳)

 3月 朝鮮での内村鑑三10周年記念講演会のため、朝鮮に4日間滞在し、釜山・京城で講演する。6月 寄付を資金に建設された学生寮・講堂が竣工、開館式を挙行する。それぞれ愛真塾・立志舘と名付ける。8月 『永遠の生命』第174号にヒトラーを批判する二つの文章を載せたため、当局から廃刊を命じられる。12月 入間田悌佶病死。

1941年(昭和16年、55歳)

 3月 『註解新約聖書 マルコ伝』を刊行。8月 『新約聖書語句索引』希和部を刊行。立志舘で刊行感謝会を開く。12月 日米開戦。

1942年(昭和17年、56歳)

 1月 『永遠の生命』廃刊後1年以上を経過し、出版法で復刊可能になったため『復活の生命』を創刊。3月 『新約聖書ギリシア語文典』改訂版を刊行。4月 八女恵津生まれる。『復活の生命』を第4号で廃刊。藤本正高が主宰する伝道誌『聖約』への寄稿という形で、ページの大部分を使用することとなる。8月 第5回夏期聖書講習会は、戦前最後の集会となる。

1943年(昭和18年、57歳)

 7月 黒崎編『旧約聖書略註』中巻 9月『武士道的基督教』を刊行。12月 『註解新約聖書 パウロ小書簡』を刊行。

1944年(昭和19年、58歳)

 2月 三谷隆正死去。母重病のため上京を断念する。母滝死去。3月 一家の疎開を決断。浅野猶三郎死去。5月『聖約』を第74号で廃刊。6月 家族7人が山中湖畔に疎開、黒崎と三男潔が残る。8月 大阪聖書研究会が平日の夕刻に開かれることになる。10月 田瀬寿雄が提供した用紙を用い『伝道私信』を刊行し、『聖約』の読者に送付。

1945年(昭和20年、59歳)

 3月 大阪大空襲があり、聖書研究会の継続を断念する。6月 自宅を引き払い、山中湖畔の家族に合流する。8月 無条件降伏の放送を聞く。翌朝「敗戦の所感」を書き上げる。9月 大阪聖書研究会を再開、「愛真聖書研究会」と改称する。

1946年(昭和21年、60歳)

 1月 『永遠の生命』復刊号第175号を刊行。7月 教育者へのキリスト教雑誌として『愛と真』を創刊。秋以降、東北、四国、中国、九州などに巡回伝道旅行を行う。

1947年(昭和22年、61歳)

 5月 日本国憲法施行。7月 『民主日本と基督教』を刊行。8月 初めて北海道を訪れ、伝道講演を行う。

1948年(昭和23年、62歳)

 6月 孫幸信病死。8月 『新約聖書ギリシヤ語研究』を創刊。

1949年(昭和24年、63歳)

 2月 『現代の偶像』を刊行。5月 東京方面の『永遠の生命』読者会で講演。12月 別府聖書研究会のクリスマス集会で講演。

1950年(昭和25年、64歳)

 1月 九州各地で伝道。春、内村鑑三30周年記念講演会が東京・大阪・山形で開かれ、講壇に立つ。6月 朝鮮戦争が始まり、韓国の『永遠の生命』『愛と真』の誌友への発送が不能となる。8月 二女康死去。 山中湖畔に代わり、六甲山頂の旅館で夏期聖書講習会を開く。9月 『聖書の手ほどき』を刊行。11月 『註解新約聖書 ルカ伝』を刊行、全10巻が完結する。黒崎聖書研究会有志の主催で『註解新約聖書』完成祝賀会が開かれる。

1951年(昭和26年、65歳)

 4月 キリスト教関係の書籍を刊行する「聖泉会」の趣意書を発表し、賛助者を募る。7月 4年ぶりに山中湖畔に逗留する。予定していた山中湖畔の夏期聖書講習会をやめ、高野山で開催する。9月 聖泉会の最初の出版物として黒崎編『旧約聖書略註』上巻を刊行。『愛と真』を第62巻で廃刊、『永遠の生命』を増ページにする。 夜間聖書学校として『愛真聖書学園』を創立、10月から立志舘で開講する。

1952年(昭和27年、66歳)

 2月 『新約聖書語句索引』和希部えお刊行。8月 八ヶ岳清里で、夏期聖書講習会を開く。9月 ヒルティ著『力の秘訣・人生の階段』を翻訳し刊行。11月 黒崎編『旧約聖書略註』下巻を刊行。12月 黒崎聖書研究会有志主催で、『註解新約聖書』『新約聖書語句索引』和希部『旧約聖書略註』の完成および『永遠の生命』250号を記念し、感謝会が開かれる。

1953年(昭和28年、67歳)

 9月 『一つの教会』を刊行。

1954年(昭和29年、68歳)

 5月から6月にかけ、鶴岡・山形・仙台・日立・東京などに20日間講演旅行を行う。8月 山中湖畔で第1回木立会を開く。戦後初めての山中湖畔夏期聖書講習会を開催。12月 中国・九州地方で伝道講演を行う。山中湖畔の無有庵が焼失する。『一つの教会』の英文版『One Body In Christ』を刊行。

1955年(昭和30年、69歳)

 1月 フィッシャー死去。3月 大阪・東京・山形・鶴岡での内村鑑三25周年記念講演会で講壇に立つ。6月 72日間の伝道旅行に出発。7月 無有庵の跡地に教友の寄付で家屋を立てる。12月 『永遠の生命』に無教会主義の信仰精神によって創設される教育機関の腹案を掲載する。

1956年(昭和31年、70歳)

 8月 山中湖畔での夏期聖書講習会で、登戸学寮建設を提案する。10月 『永遠の生命』第301号に登戸学寮設立趣意書を発表する。黒崎聖書研究会開講25周年と『永遠の生命』300号を記念し「黒崎先生謝恩会」を開催する。11月以降翌年春にかけて、登戸学寮の財団法人認可申請のため、たびたび上京し、文部省で申請書記載などの指導を受ける。

1957年(昭和32年、71歳)

 5月 登戸学寮の財団法人設定が許可される。9月 住宅公団と登戸学寮が建設契約を締結し、建設業者も決定する。10月 登戸学寮の起工式を挙行する。

1958年(昭和33年、72歳)

 2月 大滝徳蔵死去。3月 金澤常雄死去。5月 登戸学寮の開寮式を挙行する。12月 登戸学寮・山形・鶴岡のクリスマス祝会に出席。

1959年(昭和34年、73歳)

 4月 過労で視力が低下したため、受診。6月 登戸学寮生が『方舟』を刊行。7月から『永遠の生命』誌に自伝「恩恵の回顧」を連載する。12月 『永遠の生命』創刊号から掲載の「書斎通信」をやめ「生活と所感」を掲載。メノナイト派の要請で、翌年9月の渡米を約束。

1960年(昭和35年、74歳)

 3月 ブラジルの教友から旅行中の立ち寄りの要請を受ける。8月 アメリカ・南米・ヨーロッパ・アジアに向けて出発する。11月 サンパウロ、ブエノスアイレスで講演する。下旬にイギリスに渡り、36年ぶりにセリオーク・カレッジを訪れる。12月 ドイツ、スイスで旧知の人たちと旧交を温め、チェコスロバキアのプラハにも足を延ばす。チュービンゲンでカールハイム未亡人を訪問する。

1961年(昭和36年、75歳)

 1月 インド・香港・台湾を訪問、下旬に帰国。3月 大阪聖書研究会で半年ぶりの講話。月末と4月上旬に東京と大阪で内村鑑三生誕百年記念講演会を開催する。7月 山形・鶴岡・北海道で伝道旅行、基督教独立学園高等学校を訪問。12月 矢内原忠雄死去。今井館での出棺式に列席、女子学院での葬儀・告別式で、葬儀委員長として弔辞を述べる。

1962年(昭和37年、76歳)

 1月 大阪・神戸の聖書研究会を一本化し大阪のみとする。6月 海外旅行でお世話になった方へ進呈する『Outline of Mukyokai Christianity』を刊行。7月 羽黒山で夏期聖書講習会を開催。

1963年(昭和38年、77歳)

 2月 加納久朗死去。4月から最後の伝道旅行を始めるが、原因不明の疲労感と気力の減退により11月の北海道を最後に中止する。

1964年(昭和39年、78歳)

 1月頃から物忘れが激しくなる。6月 激しい腹痛に襲われる。7月 大沢弘香死去。12月 森本慶三死去。

1965年(昭和40年、79歳)

 1月 大阪聖書研究会の会場を立志舘に移す。4月 大阪 5月 東京で『永遠の生命』400号記念会を開催する。9月 長男信雄急逝。10月 黒崎聖書研究会を解散。

1966年(昭和41年、80歳)

 5月 80歳の誕生祝賀会が三聖書研究会(阪神・大阪・新千里)主催で開かれる。12月 『永遠の生命』を終刊(423号)する。

1967年(昭和42年、81歳)

 1月 『永遠の生命』終刊感謝会が三聖書研究会主催で開催。

1968年(昭和43年、82歳)

 5月 登戸学寮創立10周年記念式に出席する。12月 坂田祐死去。

1970年(昭和45年、84歳)

 5月 信州大学附属病院で白内障の手術を受ける途中、三男潔宅に滞在中に発熱、意識不明となり、東京大学医科学研究所付属病院に入院。懸命の治療にもかかわらず、6月6日に死去。6月9日、登戸学寮で「惜別の集い」を14日に立志舘で葬儀・告別式を挙行。