春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その四

山上の説教における福音と倫理その四

(今回も録音においては種々解説を加えながら話しています)。

                                2024年2月24日

二・三 心魂の認知(ロゴス)と働き(エルゴン)の共軛と共鳴和合 

 第二の倫理学の特徴は第一の特徴から必然的に問われるものである。倫理学は善悪をめぐる心魂の人格的態勢に考察の基点、視点を置くとしても、そこでは真偽に関わる認知的態勢との関係が問われる。認知的な力能、態勢と人格的なそれはいかに関わるのか、知識や認識は身体に座を持つ行為選択の欲求、動機づけとはいかに関わるかが問われている。理論的な知識とその個々の実践即ちロゴス(言葉、理論)とエルゴン(今・ここの働き)はどのように関わるのかが探求されてきた。

 例えば、原爆製造のマンハッタン計画に参加したジョン・フォン・ノイマンは人間の知的好奇心を妨げるものはなにもないとして、核分裂の可能性を知識として掴んだ以上はその実験およびその実践に道徳的良心の呵責を感じる必要はないと語ったと言われている。これは、知性上の真理の知識や認識の追求は至上善であり、それ故にその追及は至上命令であるという主張である。これは得られた自然法則についての知識とその善悪をめぐる実践的応用としての最善の行為選択肢の知識は異なるものであり、理論的知識が他のあらゆる判断に優先し実践の規準になるという主張を含意している。

 また、この見解に即せばデヴィル(悪魔)は倫理的問題に悩まされている人間たちに解を与え、無知の捕らわれから解放しうるかという問いにおいて、デヴィルが人間以上の知性を備えている限り可能であると語られよう。それは、さらに、人工知能AIが自ら身体に基づく欲求をもたずにも、将棋における最善手を示すように、行為における最善の行為選択肢を指示することができるかという問いと類似のものである。心なきAIが人生相談に与り、結婚相手を託宣することもあろうように、デヴィルは善悪をめぐり人の判断を教示し導くことがあるでもあろう。これは認知的なものが人格的なものに優先する、理論的な知識が最高善であり、実践的価値は知識に従属するという立場である。

 ここでの一つの問いは多様な与件のもとにある個々人について「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」をめぐって人間一般に妥当する認知的態勢と人格的態勢を包括する普遍的な理論、行為規範を構築できるかである(EN.VIII12.1162a29, Pol.VII1.1323a1)。アリストテレスによれば、認知徳と人格徳が普遍と個のままでは倫理学は成立せず、普遍と個を媒介する個々の最善の「行為選択肢(prakton)」の知識である「実践知(phronēsis)」そしてその基礎に「経験に基づく目」と語られ「人生の盛時」即ち年齢を重ねることにより発動する「叡知(nūs)」の認知的徳が媒介者として求められる(VI11.1143ab8,14)。

 「実践知」は「人間的な善に関わり、真なるロゴスを伴う行為力能上の態勢である」と規定され、「行為に関わる認知的なものの働きは、正しい欲求に一致した真理を捉えることである」(VI5.1140b20,VI2.1139a30)。人格徳において中庸に向かう正しい欲求が生起する時、「欲求的叡知(orektikos nūs)」が発動する(VI2.1139b4)。叡知に基づく実践知はその欲求が正しいことの知識を与えることにより「指令的」なものとなる(VI 10.1143a8)。

 人格徳は中庸を得ており快苦に対して安定しているため、行為選択肢の知識に与りそれを保全することができる。「節制(sōphroshunē)」の語源は「実践知を保全する(sozūsan tēn phronēsin)」の合成語であることが紹介されている(VI5.1040b13)。認知徳の一つである行為選択肢の保全された知である実践知は人格徳と相互に軛で繋がれており支えあう。哲学者は言う、「実践知は人格徳と共に軛に繋がれており(suzeuktai)、人格徳も実践知と共に軛に繋がれている(suzeuktai)、いやしくも実践知の諸原理はさまざまな人格徳に即しており、人格諸徳の適正さは実践知に即している限り」(X8.1178a16-19)。実践知の「原理」、始まりは人格徳の成長による。実践知は人格徳の欲求に見られる正しさを保証する。

 身体の受動反応であるパトスに善い態勢にあるとはそれぞれの徳項目において中庸に接近することであり、ロゴス(理)に与る力能を獲得していく。人は恐れと臆病のパトスが中庸に近づくにつれ、勇気の理に与る力能が増し、また快をめぐる放埓と鈍感から中庸に近づくにつれ、節制の理に与る力能が増し聴従しやすい魂の態勢になる。有徳者は適切な理(ロゴス)に「聴従している」者である(I13.1102b27)。

 個別の最善の行為選択肢にかかわる実践知がそれらの個別的人格徳に関与しロゴスを与え、行為に導く。そのさい、これら態勢とパトスを肯定的に関連づけるものはロゴス(理)であり、実践知はロゴス(言表・理)上例えば節制から分離されるがエルゴン(今・ここの働き)上不分離なもの即ち「共に軛に繋がれたもの」として今・ここで働く。アリストテレスの倫理学は欲求と叡知の綜合である実践知の理の統一的な実在論のもとに構築されることになる。

 認知的態勢と人格的態勢が「共に軛に繋がれている」限りにおいて、先に挙げた双方の分断と知性の優位は抵抗にあうことになろう。どんなに認知的に優れていたとしても、双方の徳・卓越性が関連付けられない限り、最善の行為選択肢について発動する「欲求的叡知」の欲求が伴わないものがあるため発動せず、実践知に至らないものがあるということを含意している。純粋に知的な計算等には優れていても、最善の行為選択肢をつかむ実践知に至らないケースは容易に想定できる。純粋に理論的な研究においても、ニュートンがりんごの果実が木から落ちるのを見て、万有引力への叡知が発動したとしても、それまでの運動論の素養なしには、気づくことはなかったであろう。認知的徳の一つである「叡知(ヌース)」は叡知対象に「ヒットするかしないか」のいずれかであり、つまり真か無知かのいずれかであり、「決して偽に陥らない」とされるが、それに至るまでの認知的、倫理的態勢の陶冶は不可欠である(Met.IX10.1051b22-26,EN.VI6.1141a3)。

 人生のあらゆる段階で、偶然的な選択を除いて、最善の行為選択肢に叡知が欲求を伴いヒットしないとすれば、その知性上の認知的卓越性例えば「科学的知識」、神的なものに対する「知恵」と呼ばれるあらゆる認知的活動において妨げを受ける可能性が高まると思われる。たとえ原子爆弾の原理的構造を解明したとしても、広島、長崎に原爆が投下された行為選択をめぐっては異なる行為選択肢が開かれている(例、海上での示威投下)。また、デヴィルはその定義上、人類を破壊することを事としているいる以上、その理論にはどこか悪をしのび込ませて罠をしかけているに相違ないという想定は道理あるものである。優れた知性はその罠を見抜くであろう。イエスは言う、「さがれサタン、君は私の躓きだ。神のことを思慮せず、人間のことを思慮している」(Mat.16:23)。

 アリストテレスは包括的な仕方でこの双方の良好で創造的な関係をこう語る。「真なるロゴス(理・言表)は単に知ることに対してだけではなく、人生に対してもこのうえなく有益である。というのも真なるロゴスはエルゴン(今・ここの働き)に共鳴和合することによって信用されるからである。それ故にロゴスは、理解する者たちに対して、ロゴス自らに即して生きることを促すからである」(EN.X1.1172b3-8)。このロゴスとエルゴンの共軛、共鳴和合こそが実践的効力を持つ。知性なき欲求は盲目であり、欲求なき知性は無力である。

 カントならこの命題を自らの意欲の主観的原則である行為の格率を意欲の客観的原則である道徳法則に即するよう促すと翻訳するであろう。このロゴスとエルゴンの相補性が道徳法則の超越論的性格と実践的な確証を与える。ロゴスはエルゴンにより信用される。AIは人工物にすぎず、神の子は身体を抱える者として受肉し、人間の「心は燃えても、肉は弱い」(Mak.14:38)その身体を抱えた霊的存在者の現実を熟知し、愛し共に苦しんだことが報告されている。「身体の贖い」(Rom.8:23)の欲求を持ちえないAIの認知的な教示は身体の弱さを知る全知者の救いの教えとは信頼度において異なるものとなろう。AIを信用するのは、或る領域におけることとなるであろう、たとえその領域が広範であるにしても、情報処理はあっても共感、憐みなき相手であることを受け手は常に確認する必要があることになろう。ルカもナザレのイエスについて、「彼は神とその民族すべてに面してエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となった」と報告している(Luk.24:19)。ロゴスとエルゴンの統一理論こそ求められている。

 なお、気候変動等人類の不都合な真実に目をつぶり見て見ぬふりをすることがあるように、人類は、それがたとえ万人に妥当する普遍的な真理であったとしても、その真なる理を拒否することはありうることである。端的に真理を拒否する自己欺瞞、偽りとともに、長期的には壊滅、自己破壊をもたらすことを何らか知りつつ短期的な利益の故に目先の快を選択することは個人として十分にありうることである。これも理論と実践、ロゴスとエルゴンが分離されたものとして受け止められることに起因する。その首尾一貫のなさは言っていることとやっていることの異なる偽りや偽善として論難されるところのものである。

 これに関しては「目には目」の同害報復のように、法に触れるものは、法にて審判される。道徳的次元に留まるなら、善悪因果応報のつまり自らの責任ある行為の果実は「跳ね返りの法則」とでも言うべきものが適用される限り、やはり正義が遂行されることになろう。少なくとも善悪因果応報の真理性が論証される限り、知りつつ真理を拒否することに抑止力となり、真理に即することへの積極的動機付けになることであろう。善悪因果応報が何等か適用される限り、悪に留まるとすれば、偽りの悪しき果実を甘受することになるからである。ただし、「目には目を」は原理的に報復の循環を阻止できない。

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