春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その五

山上の説教における福音と倫理その五

                2024年2月25日

 (今回も種々解説を加えながら録音しています)。

二・四 跳ね返りの法則「君が量るとの量りによって量り返される」 

 イエスは反射性、跳ね返りの法則を端的に表現している。「君が量るその量りによって量り返される」(Mat.7:2)は「裁くな裁かれないためである」の理由として提示されているが、これは単に最後の審判という神学的次元だけではなく、「君の宝のあるところ、そこに君の心もある」(6:21)という行為の目的論的構造とともに考察するとき、道徳的次元や行為の哲学など一般的に適用されるとイエスは主張していると思われる。ひとは何であれ大切にしているもの、求めているものそのものの価値により、量られる、即ちその枠の中で応答、報いを受ける、ちょうど金銭に貪欲な者が詐欺師にだまされるように。ひとは自ら量るその量りによってブーメラン効果とでも呼ぶべき跳ね返りを受け、それがはからずも自らの魂の現在地点ないし隷属を開示する。

 放埓者は放埓者相応の報いを得る。アリストテレスによれば習慣づけは本意からの自発的なものであり責任が帰属し、例えば放埓が非難されるのは「快いものどもへと人を習慣づけることは容易だから」であり、「彼らはこうした快だけを知悉しているがゆえに、これらだけを快と思っている」からである(EN.III12.1119a25, VII13.1153b35)。放埓者は欲望の欠乏充足モデルのなかに身を置き過剰な欲望を持ち、自らの偏った執着故に、多くの喜ぶべき喜びを放棄し、それが充足されないとき、必要以上に苦痛を感じる。「放埓者と呼ばれるのは、快いものを獲得できないという理由で・・必要以上に苦痛を感じることによる。・・放埓者はあらゆるものと引き換えにこれらの快を選び取る。かくして、それらを得られなければ、またそれらを単に欲望するだけなら、むしろ苦痛を感じる。なぜなら欲望は苦痛を伴うからである。快のゆえに苦しむことは不条理に思える」(III12.1118b27-1119a5)。哲学者は放埓者が自己矛盾的な存在者であることの不条理さを指摘し、維持不能性を開示する。快を求める欲望が苦痛を伴うという事態は何か愚かのように思われる。無限ループの刑に処せられているかのごとくである。光のもとにないから、その闇にとらわれているように思われる。

 ロゴスとエルゴンの相補的展開のもと善悪因果応報の法則を確証できるとき、人生の行為選択における明晰さに到達することになろう。この法則が偽であると主張する場合には、即ち「悪しき先行的行為選択に対して、善き果実が得られる」と信じている場合には、自ら反証を立てることが求められる、生涯かけて。もちろん善悪因果法則を信じる者もそれを生涯かけてその真理性を証明することが求められる。ロゴスはエルゴン即ち今・ここの検証の働きにより信用される。そして、自らの主張の真理性は他者からの悪しき対応を受けた場合に、善意をもって返すことが求められる。さもなければ自己矛盾となる。ソクラテスは「もし不正を行うか、それとも不正を受けるか、そのどちらかがやむをえないとすれば、不正を行うよりも、むしろ不正を受けるほうを選びたい」(プラトンGorgias.469C)と語り、また「善き人には生きていても死んでしまってからも、悪しきことは何一つないし、その人のことは、神々によって配慮されないことはない」(Apologia.41D)。自らへの対応においても自らの不利益や損害を実践的に受容することが求められる。習慣づけとはそのようなことにより、心魂の実力を養い、そのようにして獲得される知識は節制のうちに保全される実践知である。これが倫理学の第二の特徴である。

 この倫理学の第二の特徴は広く他の諸学との関連において浮彫になる特徴である。倫理学は他の諸学とは異なる独自の機能を担っている。数学や物理学のような知を求める理論学があり、工学のような制作を求める制作学(術)があり、政治学や倫理学のような善き統治や善い人生を求める実践学がある。そして倫理学の特徴として、それは単に知識や理論を求めているのではなく、最高善である幸福を目指す行為遂行力即ち生きる力、実践的効力を求めていることも同意されよう。

 

二・五 倫理学の第三の特徴—「幸福」は「われらの力能のうちにない」―

 

 倫理学の第三の特徴はこれまでの特徴を踏まえ人生の最高善とされる「幸福」や「祝福」の包括的な探求を遂行することである。人間の魂の分析に従事する『ニコマコス倫理学』において、アリストテレスは人間のあらゆる営みが、他のものの故、他のものかつそれ自身の故、それ自身の故に求め、選択する三種類に分類されるという。そして人は誰もがそれを究極的に求め、他のものの追求もそれのためである、そのような「最高善」を「幸福」と呼んできたとしてその理由を挙げる。「われらは常にそれ自身の故にまた決して別のもののゆえにではなく幸福を選択している。他方、われらは崇拝(・名誉)や快楽そして叡知さらにあらゆる徳を確かにそれら自身の故に選択するが(というのもわれらは[他の]何も帰結しなくともこれらのそれぞれを選ぶであろうからである)、しかし、それらを介して将来幸福になるであろうと判断しつつ、幸福のためにも選択している」(I7,1097b1-5)。

 彼はこの誰もが追求する幸福の探求を手掛けるさいに、伝統的な「大衆」や「賢者」たちの「通説」に耳を傾ける。それは人間の関心の最重大事だからであり、幸福内容の理解は「これこれ好き・~愛」(I8,1099a9)と特徴づけられるように個々人異なり、同一人においても時に異なるものであるが、その大枠においては同意が得られているからである。「恐らく、幸福を最高善と語ることは何か同意されるものに見えるが、しかし幸福が何であるかはなお一層明晰に語られるべきことが求められている」(I7,1097b22-4)。この幸福とは何であるかの一層明晰な理解のために神的な「祝福」(1098a19)が導入されたと思われる。

 「幸福(eu-daimonia)」という「名称」の伝統的理解として彼は「ダイモニオンは神かそれとも神の働きかである」と語るように語源的には「よいeu」の付加のもとで神からの善き守護霊の派遣が想定されているが、彼は一般的な理解を基本とする(Rhet.II23,1398a15)。「名称においても大抵の人々により同意されている。大衆も賢者たちもそれを「幸福」と呼んでいるが、「よく生きること」、「よく(うまく)為すこと」は「幸福であること」と同じであると判断している」(EN.I4,1095a18-20)。さらによく生きることは第一義的に人間の魂に属するものであろうから、「幸福な者」は「優れた魂を持つ者」と規定される (Top.II6.112a3)。並列されることの多い「祝福された者(makarios)」の語源として、「喜ぶ・嘉みする(chairein)」が挙げられる。「われらは人格的徳と悪徳とを快いものどもと苦痛なものどもに関わるものであると立てた、またほとんどの人々は幸福が快を伴うと主張する。それ故に、彼らは喜ぶこと(chairein)に因んで「祝福された者」をも名付けた」(EN.VII11,1152b5-8,cf. mala-chairein (being exceedingly pleased) →makarios))。

 倫理学の成否は「全体として善く生きること」(VI5,1140a28)の包括的な理解のもと、心魂の受動から能動、今・ここの行為の最善の選択に至るまでの道筋の理論(ロゴス)を構築できるか、さらには今・ここの魂の働き(エルゴン)が例えば受動的な個々のパトス(感情、欲求)、行為そしてそれに伴う快苦を介してそのロゴスの正しさを証するロゴスとエルゴン双方の補い合いを展開できるかにかかる。

 この目的論的な構造のなかで、先の第一、第二の特徴が秩序づけられる。「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」、を探求する倫理学が単に認識だけではなく、人生そのものに有益なものとして、ロゴスに即して生きる力を与えるものを探求することは道理ある。幸福に至るそのような実践的な力の探求が為されなければ、倫理学の務めを放棄するものであるとさえ言えよう。先の思考実験において、デヴィルが悪魔である限りその定義上、人間を破壊することを目的にしている故に、一見知性のうえで解けているように見えても、その背後に堕落させるトリックや罠が仕掛けられているに相違ない。悪魔に身を渡すことは、自らを滅ぼすことになる。ならば、真に信頼にたる存在者を信じて身を任せることの正しさが導出されよう。信が愛を生み出すそのような力ある信が正しい信仰、信頼であるとイエスは語る。「この女性の多くの罪は赦された、その証は彼女が多く愛したからである」(Luk.7:44)。言葉と働き、理論と実践のあいだに乖離がないこと、一般に正しい行為の動機づけはどこから得られるのか、この解明なしに倫理学は完成しない。

 

二・六 道徳法則の普遍性

  「最高善」とは目的論的体系の頂点であり、それ自身として求められ、他のものゆえに望まれることも選ばれることもないものであり、幸福(well-being)がそれであるという理解は道理あるものである。イエス自身、目的論的な人生観をもっていたことは先に確認したが、ルターの言葉「神の命令なら地獄にまで行く」は端的な信従の表明であろうが、神の命令に背くよりはそのほうが「善い」と考えていると反省的次元における捉え直しには同意されるであろう。その最高善が「幸福」と呼ばれる。それ自身善である道徳法則や有徳性はそこに到達する不可欠の要素であることも同意を得ることであろう。人間の魂の本来的な在り方として、イエスは信の根源性を説き、アリストテレスは最高善である幸福の本質的な要素としての徳の根源性を、カントは道徳的な経験の基礎に普遍的な道徳法則の根源性を説いたことは同意されよう。

 カントによれば、道徳法則の普遍的な適用こそが人間本性の道徳性を保障する。その道徳法則の普遍性は客観的に妥当する先天的な規範として意志そのものを規定し、幸福に相応しい人間であるべく遵守への切迫力を持つ。「道徳法則に即して自由を使用するにさいしての究極的目的の理念は主観的に実践的な実在性をそなえている」(KU.88節)。実践的効力をもつ道徳法則の無制約的な適用は立法者、行為主体を例外化することなく包摂するが、その普遍性はその断言命令が経験に依存せず、経験を導くアプリオリ(先験的)なものであることに基づく。言わば、その普遍性は経験に汚されることのないものとして祭りあげられることにある。

 カントは言う、「私は対象に関与するのではなく、対象についてのわれらの認識の仕方に、しかもこの認識の仕方がアプリオリ[観察経験以前的、先験的、ロゴス上]に可能である限りにおいてかかわる、すべての認識を「超越論的」と名付ける」(KrV.B25)。超越論的な考察とは「諸概念とのみ(bloss mit Begriffen)関わる」ことになり、「単にアプリオリな諸概念からはいかなる実在的根拠についても、いかなる因果性(Kausalität)についても、その可能性を認識することはできない」(KrV.B586/A558)。

 この超越論的な議論の先駆としてアリストテレスのロギコスな議論を挙げることができる。「神学(theo-logikē)」や「天文学(kosmo-logikē)」が語尾にlogikē(形式言論構築術→logic)を持つことは偶然ではなく、観察や経験の困難なものを対象とする学はこの思考様式に依拠せざるをえない。アリストテレスによればこれは矛盾律に基づき「いかに語るべきか(pōs dei legein;)」という言葉の分析力に基づく視点から「いかにあるか(pōs echei;)」の観察経験を導くないしその論理的、形式的思考による基礎を展開する言論の技術である。アンセルムスの「理性のみ」による神の存在論証は矛盾律に基づき背理法により神が単に「理解のみに在る」のではなく、「ものごとにおいても在る」のでなければならないことを存在主張として論証している(Proslogion ch.2)。それはカント的には「超越論的」な議論と親和的である。神学的対象については言語の力によるロギコスないしアプリオリな超越論的議論は経験の基礎として不可欠である[i]

 断言命令の基礎は「汝の格率[意欲の主観的原則]が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が意欲することができるような、そうした格率によってのみ行為せよ」(KpV.IV421)である。「格率」は単に恣意的な意欲ではなく、道徳法則への善意志のもとにある道徳的な意欲として秩序づけられる。自己矛盾を含むまた自己利益追求の格率は普遍化されない。例えば格率「他人のものは自分のもの」は、他人でもある自己は自らへの適用を承認しえず普遍化を許容できない。そこでは「善意志」が発動しているが、そのロギコスな規定はこうである。「無条件に善い意志とは、悪でありえない意志であり、したがってその格率が普遍的法則とされるならば自らこれと決して矛盾対立することのできない意志である」(GMS 8 BA 81/AA 437)。かくして、理論上、主観的な判断は道徳的であるべきものとして普遍的道徳法則のもとに秩序づけられる。「善悪の概念は道徳法則より先にあるのではなく、・・道徳法則に従ってのみ規定されなければならない」(KpV.V63)。実際、イエスの新しい律法理解は善悪因果応報の「善悪」の概念を極度にシャープにする。経験的に善悪を把握するとき、そこには普遍的な道徳法則がロゴスとして既に無制約的にしかも今・ここにおいて働いている。正しい働きがなされるときは正しいロゴスに即して遂行されている。


[i] 『信の哲学』 下巻第五章参照。


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