春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その三

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その三 (「方舟」64号に掲載したものの録音公開にあわせた章節の掲載ですが、録音では解説を加えながらの収録です)。

                                                    2024年2月21日

第二章 倫理学の三つの特徴―心魂の実力の学としての態勢の倫理学―

二・一 倫理学の持つ普遍的次元 

 山上の説教は「天の父」に眼差しを向けさせる疑いもなく宗教的教説であるが、信じる信じない以前に、善人悪人以前に天の父の憐みを語りかける普遍的に人間一般に適用される教えとして倫理的次元を持つと思われる。福音の宣教のなかから、そのベースにある彼の基本的な行為原則を摘出したい。

 倫理学は「ひとはいかに生きるべきか(pōs biōteon)」、「最も望ましい生は何か(tis hairetatos bios)」、「幸福に値する人生は何か」について問をたててきた。人間が人間である限りに妥当する、普遍的な理解の提示がこの学に求められてきた。富者或いは弱者にのみ、有神論者或いは北半球の住人のみに適用される道徳法則は人の道としての「道徳」或いは「倫理(人格・人柄についての学的理解)」の名に値しない。人としての道徳或いは倫理は人生の基本的な教えとしてあらゆる行為に浸透しうるまたそこからあらゆる営みが遂行されるべき生の在り方、生の指針を人間本性の理解のもとに提示することが求められている。ひとは単に或る会員や民族の規則ではなく、普遍的な人生の規範と幸福を求めるそのような理性を備えた存在者だからである。或いは、人は誰もが他者に囲まれているが、そこに共通する対話や交流の足掛かりを必要としているからであると、或いは誰もが、その発動は各人異なるが「良心」を持つからであると言うこともできよう。

 山上の説教は信じる者にも信じない者にも妥当する一つの倫理学説として普遍的に取り組むことのできる言葉の層を自ら保持していると思われる。代表的な哲学者たちの倫理学の三つの特徴を挙げて、この道の教えを諸倫理学説との対話のなかで、その教えの共通性や独自な特徴を浮き彫りにしつつ、一つの倫理学説として捉えることを試みる。それは単なる宗教的、神学的主張の提示ではなく、イエスの天と地の連続性の議論を理性の明晰性のもと普遍的な次元で捉る試みである。そのうえで倫理的次元の解明の助けを得て、福音がいかにその道徳的次元を内側から破る仕方で現出するか、その現場をとらえたい。

 この試みは読者に緊張を強いることになろう。山上の説教は「天の父」や「天国」、「地獄」等への言及がなされ、「染みや虫が喰いそしてそこは泥棒たちが忍び込む」不十全な世界から完全な天国をめざすことが人生であるという認識が提示され、これは一般的な観察経験の外にある宗教的教説であり、信じることにより受容すべきことがらであると思われるからである(Mat.6:19)。この説教はせいぜい「神学的倫理学」、「倫理神学」のもとに分析されるべきであると思われるので、この事態は倫理学一般の理解の説明を要求するであろう。

 まず倫理学が何を対象とし、どのような議論を展開しているかを三つの特徴に即し概説し、倫理学的地平を確認する。そのとき、偏見が除かれ、双方からの歩みよりを確認できるであろう。それによりイエスの教えを信じる者にも信じない者にも議論でき、共有できる一つの倫理学説として捉えることができると思われる。人間は宗教的人間(homo religiosus)であると同時に理知的人間(homo sapiens)でもあり、人間の本性に深く関わる山上の説教についての倫理学的次元での分析はイエスの言葉と行いの理解に裨益するところ大きいことであろう。倫理学は「いかに生きるべきか」の問のもとに思考が展開されるが、この当為「べき」の規範性は生きる力、即ち単に理論的な次元でそれが解明されたとしても、画餅におわるそのようなことがらであり、その理論を生きることそのものに移行させる実践的な効力の問を含意する。信仰が人の生の方向を定め促す実践的な効力を持つこともあろうが、望ましい人生とは何であるのかの理性による明晰な理解もそのような効力を持つことであろう。

 この解明に向けて、まずナザレのイエス以前に属するアリストテレスとキリスト教思想のただなかで構築したカントの倫理学説を、時にイエスの対応する教えを引用しつつ確認する。続いて、双方の共通の地平において山上の説教を分析する。とりわけイエスにおける善悪因果応報ならびに互恵性の教えを考察する。イエスの他の言葉を参照することにより、教え全体の整合性の確認をその都度おこなう。さらに天と地の連続性の教えをめぐって、光の透明性がもたらす明晰性の思考実験のもとで、その都度、最善の行為選択肢が明らかである状況を考察する。イエスの教えは、自らの自覚として、一方で、神学的次元において、神のみ旨・み心の開示であり、それは神的視点からの人間の本性を明らかにしているが、他方、倫理学的次元において理性の普遍的な理解に訴えるものとして人間の取るべき最善の行為選択肢、歩むべき道の考察を促している。彼は黄金律において先行行為主体のひたすらなる善意こそが祝福された預言者的な生であるとする。その論拠を考察する。

 

二・二 目的論的な生における「習慣づけ」による心の態勢と働き  

 ここでは「倫理学」の特徴としてこの学を体系的に構築したアリストテレスに従い三点を挙げ、順に論じる。それらは第一に一つの学的な営みを形成する視点と射程、第二に行為形成に関わる知識と欲求の関係およびその背後にある普遍的な理論(ロゴス)と個々の行為(エルゴン)を動機づける実践的効力の関係、そして第三に人間にとって最高善とされる幸福を形成するものの三つである。

 「倫理学」の視点として、ここでは、『ニコマコス倫理学』をとりあげ、ものごとの真偽をめぐる人間の知性的・認知的な働きそしてものごとの善悪をめぐる人間の倫理的・人格的な働きについて、「エートス(習慣づけられた態勢)」と呼ばれ人間の心魂に蓄積される態勢、実力とその働きに考察を向ける[i]。ここで「態勢(hexis)」とは「それに即しわれらがパトス[感情や欲求等身体の受動的な反応]に対し善く或いは悪くあるところのもの」である(EN.II5.1105b25)。例えば「怒ることに対して、かたや激しく或いは他方散漫に怒るならわれらは悪くあるが、もし中庸に(mesōs)怒るなら、善くある」(b26f)。パトスとその感受力能は「自然本性により(phusei)」(1106a9)生じるものであるが故に、人はそのこと自体により善人とか悪人とか、称賛や非難を受けることはない。

 他方、徳は「われら次第」の責任を伴う行為の選択をめぐる心魂の或る態勢、実力である(III5.1113b9)。「選択の原理は欲求そして何かのため[目的]の理である。それ故に、[目的の理に関わる]叡知および思考なしに、さらに[欲求に関わる]人格的態勢なしに選択は存在しない。というのも善い行為とその反対の行為は思考と人柄(tū ethūs)なしにはないからである」(VI2.1139a32-34)。従って、それら自然的に生起するものに対する対応力として習慣づけられる心魂の態勢に徳や悪徳が属することになる。「快と苦[パトス]は態勢の徴である」とも「行為は態勢の徴である」とも呼ばれ、人の行為はその態勢に即して実力通りに発現するないし演じられるという意味において、心魂の働き全体がこの学の考察対象となる(EN.II4.1104b3,Rhet.I9,1367b31)。これは実際人間のあらゆる営み、行為を包括するように思える。というのも、人はそれまで培った態勢のもとに何らか認識や印象をもち、判断し、行為を遂行しており、意見や判断には真偽や善悪の信念が伴い(hepetai pistis)、その信念には納得が伴い、その納得には理(ロゴス)が伴っているからである。信なしに意見や判断はなく、納得や承認なしに信はなく、理とそれに基づく説明なしに納得や理解、知識はない(De An,III3.428a21f)。

 イエスはこれらの魂の態勢と行為ないし感情の分析に同意すると思われる。イエスは言う、「善い人は善いものをいれた心の倉から善いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」(Luk.6:45)。道徳を成立させるものとして行為者はそれぞれの心の実力としての態勢を持ち、その態勢に応じて善か悪を行為するという共通性を持つ。彼は悪の跳ね返りについて言う、「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚す。・・すべて口に入るものは、腹を通って外に出される・・しかし、口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、悪口などは心から出てくるからである。これが人を汚す」(Mat.15:11-20)。心からでてくるこれらの悪行は瞬時に跳ね返り心を汚す。これは心の態勢の一つの指標として捉えることができる。

 イエスは望ましい態勢についても言う、「天国のことを学んだ者は皆自らの倉[心に蓄積された態勢]から古いものと新しいものを自由に取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。ここで「倉」とは各自の心魂を表しており、真偽に関わる認知的態勢・実力、善悪に関わる人格的態勢・実力がそこに蓄えられる。様々なものが例えば古い契約の律法や預言そして新しい新約の福音も蓄えられており、主人はそのつど適切な対応を選択すべく、最善の行為選択肢を実現する自らの力能を自由に用いることができる

 このようにパトスや行為は心魂の態勢を開示するものとして普遍的であると言える。とはいえ、五感や感情、欲求がもつ身体の感受的力能とその発現、働きについての観察を通じた定量的な分析は、生理学等自然科学的分析に委ねられる。感覚や記憶そして経験さらには学習に基づきひとはものごとの真偽と善悪を判断しており、これも一つの心的行為であるが、行為を構成しているもの、動機づける心魂の態勢に倫理学は関心をむける。

 かくして、ものごとの真理と善にかかわる卓越した心魂の態勢、実力は「徳」と呼ばれるが、倫理学は概して善き心魂の態勢である人格徳の視点からの心魂の認知的、人格的な営みをめぐって理論的な理解を形成する。

 実際、アリストテレスは「エーティケー」とは「エトス(習慣、生活流儀、人柄)」また「エートス(習慣づけられた態勢、人柄、人格)」の学であるとして、こう語る。

 「実際、徳・卓越性は二種類あり、それは認知的な徳(dianoētikē)と人格(倫理)的な徳(ēthikē)である。一方、認知的なものの大半は教示に基づきその生成と成長とを持つ。それ故にそれは経験と時間を必要とする。他方、人格(倫理)的な徳は習慣に基づき(ex ethūs)優れたものとなる(periginetai)が、この名称「人格(倫理)的徳(エーティケー)」も「習慣・人格的習性(tū ethūs エトス)」から少し変化して得たものである。そこから明らかに、人格的徳のいかなるものも自然本性上(phusei生得的に)われらに生起することはない。というのも、自然本性上存するもののいかなるものも現状とは別の仕方で習慣づけられることはないからである。例えば、石は自然本性上、下方に運ばれており、上方に運ばれるよう習慣づけられることはない。

 ・・かくして、これらの徳は自然本性上も自然に反しても生起するのではなく、かたやわれらがそれらを受容するべく生まれついてしまっており、他方、習慣づけを介して完全な者たち(teleiūmenois)になる。なお、われらに自然本性上備わるかぎりのものどもに関して、これらの力能をより先に与えられており、後にこれらを実働にもたらす。・・[生得的な知覚とは「逆に」]われらは先行して実働することによって徳を獲得する、まさに別の技術においても同様であるように。・・家を建てることにより建築家になり、キタラを奏することによりキタラ奏者になる。このように、われらは正義を行うことにより正しい者となり、節制することにより節制者となり、勇敢であることにより勇敢な者となる。だが諸ポリスにおいて生じていることもこの証となる。立法者たちは市民たちを習慣づけることによって善き者とする、あらゆる立法者の意欲はこれなのである。・・この時点で一言でまとめると、類似の実働に基づき当該の態勢(hai hexeis)が生じてくる。それ故に当該の一定性質の実働(tas energeias poias)を生み出さなければならない。というのもこれらの諸差異に即して態勢が随伴するからである」(EN.II1.1103a14-b23)。

 このように人間の心魂の諸力能をめぐり、訓練と習慣づけにより最終的には人格的に有徳者となり、カトリックにおいては「聖人」となる。これが、五感のような生得的諸力能とは異なる、訓練や習慣づけにより生じる優れた態勢としての徳倫理学の根幹を形成する。ひとは、かつてできなかったことができるようになる、そのような自己の成長や堕落を認める限り、ひとは「君の宝のあるところ、そこに君の心がある」(Mat.6:21)というイエスの主張同様に、大切にしているものに心が向かうという普遍的な法則からなる目的論的な構造のもとに倫理的な次元で生活していることになる。誰もが承認できることとして、イエスは明らかにこの目的論的人生観を前提にしている、或いは共有しうる立場で語っている。

 人間が訓練により獲得する人格態勢に対する懐疑が提示されてきた。ルターに代表される人間認識によれば、聖人に至るまでの有徳性の蓄積の可能性を信ぜず、「人間は蛆虫のつまった頭陀袋」であり、右手で為す善行を左手に知らせないことがあるとするなら、神がキリストにあって為し給う奇蹟である。そこでは人々はルターにならい「恩恵のみ」を強調することもあろう。これに対して、ここで直接応答に取り組むことはできないが、「わたしは君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)として人間的な視点をも導入することのあるパウロに即して、神の前と人の前を分節することが許容されている限り、対応は可能である。人間中心的には相対的に独立した行為主体として、「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な存在である(Rom.6:20-23)。パウロはこの可能存在に対し、「君が君の側で持つ信仰を神の前で持て」と命じることにより、キリストの出来事を自らのそれとして受け止めよと励ます(Rom.14:22)。神の前ではモーセ律法に照らす限り誰もが罪人であり腐臭を放ってもいようが、人間的には人生経験を通じて心魂の成長が見られることが確認されるならば、また立派な人間とそうでない人間がいる限り、その懐疑的主張をも倫理的次元で吟味できるとしておこう[ii]

[i] 千葉惠『信の哲学』上巻第二章第三節参照p.318-346 (北海道大学出版会 2018)、

千葉惠「アリストテレスの倫理的実在論―ロゴスに自ら即して生きること」「MORALIA」 第29号(東北大学倫理学研究会 2022)参照。

[ii] 『信の哲学』 上巻第三章第三、四節参照。

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