春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二

山上の説教における福音と倫理その二

     (「方舟」64号に掲載したものの録音公開にあわせた章節の掲載ですが、録音では解説を加えながらの収録です)。

                                              2024年2月19日

一・三 譬え話 

 民衆には(3)譬え話が語られるが、それは聴衆には馴染の比喩や事例、物語により構成されており、それらは話者であるイエスがその語りが伝える天国への橋渡し、媒介者であることへの信頼に導くことが目指されている。それは結果的に信頼関係が醸成されない者たちは去っていくことをも含意する。

 天と地を繋げるよう語りかつ働くイエス自身への信頼なしには、表面的に理解はしても承認し受け止めることのできないそのような類の言葉が展開されている。一方で、信じる者にも信じない者にも理解できる言葉の層があり、これを無視してはイエスの言葉をも理解できない。他方、彼の言葉は一対一の信頼関係においてのみ自らに語り掛けられているその独自の言葉として人格的に働くそのような状況を引き起こすものである。なぜなら、これは媒介者であるイエス自身を信じることなしには、決して彼の語る天がリアルなものとなることはないそのようなものだからである。

 譬えはそれを聞く者の態度いかんにより理解されまた理解されないものである。E.Schweizerはドイツにおける譬え研究をまとめてこう語る。「イエスの譬えは教育的ないし倫理的な呼びかけをなす命題に還元されうるものではなく、自分が今やそれを理解し内的に習得することに満足すれば譬えの方はなくてもよい、というものではない」[i]

 譬えは一般的な真理や教訓を例証するものではないという考えは、話者と聴衆の一対一の関係を形成するものという理解に導く。「パン種の譬え」は家の台所をあずかる婦人たちの生活の基本であり日常繰り返していることに他ならず、イエスが自らに近づいているのに気づく。「神の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に隠した。すると全体が発酵するまでになった」(Luk.13:21,Mat.13:33-34)。イエスはそこで「三サトンの粉」という日常的でない二十五キロもの大量の粉に言及する。彼女たちは生活の基本を知らない男たちに、呆れつつ「一体どうやってこれを調理台の上で、或いは外に出てテントの前で本当にこねろと言うのだろうか。食べるのにいつまでもかかって、パンがみな固くなってしまうだろうに」と思案する。シュヴァイツァーは言う、「譬えを理解することができるのは、譬えによって自ら、そこで語られている物語へと引き込まれていくときだけなのだ、ということである。譬えはただ「その内側から」のみ理解することができる」[ii]。そこから、毎日酵母菌があんなに膨らんでいくのを見ている婦人たちのなかに天国とは大宴会が開かれる所なのか或いはそれほど生命力に満ちているのかという印象を醸成する。この連続と不連続に訝しがることが物語に引き込まれるということの一例であろう。譬えはこうして一人一人の反応を引き起こす。

 二一世紀に生きる者にも同様でありもはや肉声と肉眼の現場にいることはできないが、伝承されている譬え話を今・ここで聞く。「種蒔きの譬え」において、イエスは茨や荒れ地に蒔かれた種との比較において、善き地に落ちた種は数十倍の実りをもたらすと語った。「善い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(Mac.4:20)。主観的にはどんなに自らの成育環境が殺伐とし、不毛に思えても、自らが善き土地であり、善き環境のもとに蒔かれたことを信じることなしに、成長し豊かな人生をもたらすことはできない。

 この譬えも躓きを含意しており、種蒔く人の意向により、荒地や茨の地そして善き地に蒔かれており、種蒔く人は不公平ではないかと訝しがる。ここで「善き地」とは神に憐みをかけられた地である以外になく、自ら荒地ではなく善き地であるという信のみが善き果実をもたらすことを知らされる。譬えを介して語られる天国とその語り手への信頼、信仰により受け止めるときだけ、自らの人生が展開し、肯定的な果実を生み出し、ひいては天国はパン種により発酵し膨らんでゆくそのような生命力溢れる世界であり、そこに入れていただくという希望が湧いてくる。これが真実か否か個々人に決断を迫られている。譬え話が持つ、悔い改めと新生をもたらす言葉の力とはそのような個々人における承認への切迫性である。二千年前十二人で始まったこの運動が今・ここでプラスワンの実りをもたらすかという切迫性をもって語り掛けられる。

 この世界の悪、不十全性の故に、イエスは自らについて沈黙することがある。彼の使命遂行の途上においては、明らかにされないものごとがある。これは聖書学でW.Wrede以来「メシヤの秘密」と呼ばれていることに関わる。イエスは自らを「人の子」として語り、媒介の働きにおいてまことの人であることを強調し自己限定している。イエスは彼の公生涯においてメシヤと看做されることを肯わず、周囲に厳しくそう理解しないよう戒めていたという問題である。確かなことは、O.Cullmannにより説得的に論じられているように、荒野の誘惑やペテロによるメシヤであることの告白、ピラトやカヤパの尋問に対する彼の応答「それはあなたが言っていることです」に見られるように、彼はユダヤ人の政治的メシヤとなり政治的王国を建築する者と看做されることを拒否したことである(Mat.4:8-10,26:64,27:11-14,Mk.8:27,33)。クルマンはこう纏めている。「(a)イエスは称号「メシヤ」に対して極度の留保を示した。(b)彼は実際その称号をサタンの誘惑と結び付けられた特殊な観念であると看做した。(c)決定的な諸箇所で彼は「メシヤ」の代わりに「人の子」を用いたそして一方を他方と或る対立のうちに置くことさえした。(d)彼は意図的にユダヤ人のメシヤの政治的概念形成に対抗してebed Yahweh[「神の僕」:「ebedは苦しんでいる神の僕である」p.55]に関連する諸観念を据えた。これらすべての点はイエスがローマ人によって政治的メシヤとして処刑された事実の皮肉を示している」[iii]

 イエスが「メシヤ」という呼称の政治的含意に注意を払っていたことは明らかである。実際、弟子たちの逃亡は単に連累への恐れということではなくイエスに政治的メシヤを期待していたことによっても説明されよう。「わが王国はこの世界に基づいていない」(John.18:36)。

 明らかなことに、神の計画がユダヤ人による政治的支配の実現をイエスに託していたとすれば、これはすべての国民に告げられるべき福音の成就とは全く異なるものとなる。イエスは自らがユダヤ人の王を目指していると誤解されることは決して認めがたいことであったであろう。それ故にこそ、多義的でもある「メシヤ」の語用を避けたのだと思われる。

 それとの対比において、大祭司の「お前は神の子、メシヤか」との政治的支配者の意味での確定をもくろむ追及に対し、イエスは彼らに「人の子」と自らを呼び、ダニエルの預言が自らに適用されると公言し、(1)自己言及として引用する。「あなたたちはやがて人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る」(Mat.26:63-64,Luk.22:66-71,Dan.7:13)。所謂メシヤの秘密はイエスの自己意識の変化という類のものではなく、彼は受肉した神の子として政治的メシヤへの誘惑を受けまたゲッセマネの苦闘の祈り等に見られるように、神の意志を一つ一つ実現していった。

 重要なことは、イエスはイスラエルの歴史と自らが実現しつつある信に基づく神の国の福音を競合させることは決してないことである。神は永遠の相のもとに自らの意志をイスラエルおよび人類において実現させる自らの歴史の展開において、まず一つの民族を自らの民として選び律法を与え具体的な歴史を介して鍛錬し、自らの理解する正義と罪を明確に知らしめている。イエスはその計画に即しモーセ律法が「一点一画」たりとも廃棄されることはないという尊敬を貫きつつ、彼に託された神の国の福音の成就をめざし、神の意志を遂行する。その途上の歩みと成就を福音書は報告している。かくして、イエスは古い葡萄酒と新しい葡萄酒双方の保全を自らの使命とした。それは信の従順により純化されたモーセ律法を充たすことにより遂行された。事の成就を受けてのパウロは「信の律法」と「業の律法」の二つの啓示を前提に双方を秩序づけた(Rom.3:27)。

 

一・四 イエスの言葉の普遍的理解 

 イエスの宣教の言葉は誰もが理解できる言葉であるに相違ない。さもなければ、何も伝えることも導くことも生起しない。イエスの天の父のみ旨を伝えようとする言葉はこの連続と不連続の感覚、居心地の悪さ或いは躓きを聴衆の意味理解において引き起こす。しかし、語り手であるイエス自身の言行にこそ天の消息が見いだされること、即ち彼が実は(1)自らを伝達していたことを理解するとき、ひとはのっぴきならない態度決定の前に立たされていることに気づく。(1)自己言及と(3)譬えの判別において、イエスは持つ者と持たざるものを識別していた。そこで「持っている者」が「誰であれ」と語られており、この対比は奥義の知識が授けられている弟子たちに限定されてはいない。天と地の連続性とその憐みの充溢を受け取っている者は「誰であれ」さらに善きものを受け取る。他方、心頑なで信じない者は持っているものも取り去られると語られる。両者は憐みのもとにあるか否かで判別され、憐みへの信なしには譬えを正しく理解することはできない。

 天と地がある限り、そしてイエスが媒介者である限り、常に彼の言葉と働きは躓きでもあろうが、人間の数々の行為のなかで「欲すること」と「行為すること」が同時でありうる心魂の根底に生起する信のみがこれを乗り越えることができる。例えば、国家の指導者になりたいという欲求と指導者として働くことには時間差があるが、信じることは同時でありうるものである。このことは信が心魂の根源的行為であることを示している。

 確かに、何であれ誰かの語りを理解することに程度の差異が生起する。「語られている物語へと引き込まれていくときだけ」とシュヴァイツァーにより注解されるが、自らの経験に照らし合わせて、パン作りの譬えを通じて天国を理解する者もいれば、ただ言葉として言われていることを理解する者もいよう。この譬えを信じイエスについていこうとする者もいれば、不条理として拒絶する者もいよう。この彼の譬えや語り掛けを真実として受け止めるか否かが、あの溢れる生命力のなかでの発話がもたらす切迫性である。

 他方、物語に引き込まれていようがいまいが、最低限の理解は承認するにも拒絶するにも双方のあいだで成立しているものでなければならない。それは言葉が持つ普遍性への信頼なしには言語の学習も伝達もあり得ないからである。イエスの生涯を踏まえて、イエスがキリストであることを宣教するパウロの立場からキリストについての宣教が始まる際の聴き手と語り手の関係を確認することができる。「それでは、信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか」(Rom.11:14)。この聞くことを介して誰にも共有される語句の意味を理解する段階があり、そのゴールは、「わたしは君たちのうちにキリストが形づくられるまで産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)と語られるように、キリストが宣教の聴き手のただなかに実働することである。単なる情報の伝達ではない、言葉とその意味理解の伝達が遂行されている。不連続の認識は聞く側の不十全性、罪による、即ち語る媒介者への信においてないことを含意している。福音はその信によってのみ正しく理解されるそのような言葉である。

 この最低限の普遍的な理解の企てが山上の説教を倫理的教説として読むことを可能にする。信じる者も信じない者も同様に理解できるその普遍性において倫理学は構築される。福音はわれらの外に明確に立てられていることであろう。しかしその承認或いは拒絶はその明確な理解のもとになされる備えを必要としている。これが福音と倫理の関係である。

 このことはキリスト以前の例えばアリストテレスの有徳性の理解と比較することを可能にする。なによりも、天の父の憐み深さが自然を介して示されている。「茨から葡萄が、アザミからイチジクが採れるだろうか」とイエスが言うように、「ヒトがヒトを生む」複製機構の安定性はアリストテレスによれば「最も自然的なものごと」であるが、イエスにおいても憐み深い自然の創造者である神の産物として太陽や雨と同様に自然の恵みに数えられる(Mat.7:16,Aristoteles, De Anima, II4.)。春になると花々が芽吹き、蜜蜂がやってくる、この秩序ある自然の循環が恩恵であるように、ひとは外に自己完結的に明確に立てられた福音の故に、それが神の憐みの現れであると信じ、信に基づく正義・義を受け取り、その義の果実としての愛に向かう。その愛の不十全性に悔い改め、また神の憐みに立ち返る。この望むらくは螺旋的深化をもたらす循環こそ中心に恩恵が立っているから生起するものである。倫理学はその中心への志向を括弧にいれつつ、周辺を循環することの基礎となる理解を展開する普遍の言葉である。



[i]  E.シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』山内一郎監修辻学訳p.51f(教文館1997)

[ii] 同掲書 p.56

[iii] O.Cullmann, The Christology of the New Testament, p.126 (London 1959)

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