春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その六

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その六

               (録音は以下の文章に解説を加えながら行われています)     2024年2月26日


二・七 有徳性が人間のパトスや行為の「尺度」である 

 この断言命令(「汝の格率[意欲の主観的原則]が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が意欲することができるような、そうした格率によってのみ行為せよ」(KpV.IV421))に含まれる道徳法則の普遍性と実践的な効力はアリストテレスにおける次の命題に相当すると思われる。「徳そして善き人がそれぞれのものごとの尺度であるなら、この人に現れる快が快であり、この人が喜ぶ快いものが快いものである」(EN.X5.1176a17-19)。この「尺度」は「いかに生きるべきか(pōs biōteon;)」および「最も望ましい人生は何か(tis hairetatos bios)」の問に対する、魂における態勢とパトスをめぐる普遍的な規範であると言える(Pol.VII1.1323a1)。有徳性が行為のゴールとして、人生の尺度、規範とされる。魂の働きである行為やパトスはその有徳な心魂の態勢に基礎づけられる。「快や苦」のパトスと「働き・行為(ergon)」は「ヘクシス(魂の態勢)のセーメイオン(サイン(徴)、証)である」(EN.II4.1104b3,Rhet.I.9.1367b31)。先述のように、選択できない身体的反応や「われら次第」(1113b9)と言われる選択による行為において、その人の内面的な道徳的実力が知られるという立場である。態勢の涵養が倫理学の主題となる。魂の態勢とパトスや行為の関係は有徳性を尺度として普遍的に妥当すると主張されている。

 普遍的命題が普遍的に妥当適用される真理を伝えるとしても、先に見たように、理論が万人を普遍的に拘束するが、個人的には誰をも拘束しないということはありうることである。ひとは真なる理論を拒否することができるからである。それはロゴス(理論、理性)の弱さや限界によると言うべきということもできようが、むしろ心魂の全体が秩序づけられていないと言うべきであろう。ひとは虚偽や不明瞭性そして暗闇をより好むことがある。真理は不都合な真実であり、ひとはそれに眼をつむり避けるということがある。アリストテレスによれば、これはロゴスとエルゴンの相補性が機能していない状況である。というのも、認知的態勢と人格的態勢が共に軛に繋がれているなら、「欲求的叡知」が発動すると想定されているからである。どんなにコストがかかろうとも正しいことをすることに喜びを感じ、実践知が掴んでいる最善の行為選択肢を選ぶことを欲求する者は有徳な者である。

 

二・八 道徳法則や有徳性と幸福の関係 

 カントは格率を普遍的法則にならしめる義務こそ格率の道徳化を介してひとをして有徳にすると理解する。「道徳的法則は最も完全な存在者にとっては意志の神聖性の法則であるが、すべての有限な理性的存在者にとっては義務の法則であり、道徳的強制の法則である」(KpV.V82)。最高善として誰もが求める幸福は有徳性への眼差しに基礎づけられ、意志が義務と合致するところに成り立つ。その有徳性は「道徳法則の遵守と調和的に一致する、最高の世界最上善としての理性的存在者の幸福」に方向づけられる(KU. 87節)。人生全体において魂の全体性が、欠けなき満月のように「完璧な正方形」(EN.1100b21)のように秩序づけられ満ちていることを幸福と看做すことについては誰もが同意することであろう。

 双方とも有徳性を幸福と同定してはいない。アリストテレスにおいては「幸福」は確かに「十全な徳に即した魂の或る実働(energeia tis)である」(1102a5)が、「諸力能のうちにない」ので「称賛よりも尊崇」の対象ではないかが問われるそのようなものである(EN.1101b12)。幸福の定義に見られる「或る実働」の「或る」には「快い・喜びを伴う」が代入される。われら次第である選択の外にある生の与件や幸運等の「外的善」(1101a15)を考慮せざるをえず、たとえ有徳性形成に資する限りでそれらは善と呼ばれるにしても、「人生全体」が幸福の射程であるとされる限り幸運や不運を避け得ない。そこに「エウダイモニア(神からの善き守護)」という語の構成からして、「神的な定め」や「神々の贈り物」(1099b10)としての祝福による支えを必要としており、神的な「祝福」を考慮せざるをえない。彼はこう言う。「善き人々と成るのは、或る人々は(2)自然によって、他の人々は(1)習慣によって、他の人々は(3)教えによってであると考えているが、自然のものごとは、(1)われら次第で内属するのではなく、(2)何か神的な諸原因故に真実に幸運な者たち(dia tinas theias aitias tois hōs alēthōs eutuchesin huparchei)に内属すること明らかである」(X10.1179b20-24)。このことは神が人間に関わるとき、自然事象例えば魂の働きに関わる自ら選択できない喜びや快、平安等のパトス等生理的変化を介して憐みをかけ幸運を授けるという仕方で善き人を形成する。神が自然を介して善き人を幸運な者にすることが明言されているが、アリストテレスは幸福のロゴスを補うものとして嘉み、喜び、快さに確認されるその都度の神的な祝福を語る[i]

 カントも『判断力批判』において「幸福」が人間存在の「絶対的価値を評価する規準」ではないとする。「というのも、・・幸福を自らの究極的意図とするなら、そのことによっては・・「いかなる価値を人間は自ら持つがゆえに、自らに対して自らの現実存在を快適なものとするのか」は全く理解されないからである」(KU.86節)。「幸福」は理性的で有限な人間が道徳法則に即して何らかの究極的目的を定立することのできる「主観的条件」である。「最高の自然的善」である快適な幸福は、「人間が「幸福であるに値すること」としての倫理性の法則と一致するという客観的条件のもとにある限りにおいて」人間存在の究極目的に結び合わされる(87節)。

 この二つの要件に基づき、カントは神の存在を要請する。「究極的目的」は道徳法則を通じて課されており、幸福と倫理性の法則とを「われらは自らの理性力能の一切をもってしても、たんなる自然原因によって結合し、先に挙げた究極的目的の理念[「世界において自由を介して可能となる最高善」]に適合したものとして表象することは不可能である。かくしてこのような目的の実践的な必然性の概念は・・、われらが自らの自由を、自然の原因性以外のどのような原因性とも(手段として)結びつけない場合は、そうした目的の実現をめぐる自然的な可能性という理論的概念と一致するにはいたらない。かくしてわれらは、道徳法則に適合して究極的目的を掲げるために、何らかの道徳的世界原因(一つの世界創始者)を想定しなければならない」(87節)。アリストテレスもカントも有神論のもと「幸福」を究極的には神学的概念として捉えている。

 その倫理学が神学的である影響力ある二人を取り上げたのは恣意的と思われるかもしれない。しかし、神を想定せずには、彼らにとっても人生を全体において理解することはできないとすることは、人生が幸運や不運のもとに人間の選択や努力を超えたところに営まれることを考慮する限り、道理あることである。少なくとも二人とも人間の魂の道徳的本性をめぐって客観的な普遍妥当性とパトス(欲望、感情等)を含めた「われら次第」である行為選択のあいだの統一理論を求めていたことは確認できよう。カントにおいては実践理性のもとでの断言命令の持つ普遍妥当性が格率を秩序づけ方向づけることにより実践的な効力を持つ。

 これまで倫理学を構成する三つの特徴を論じつつ、カントのみならず、ナザレのイエス以前のアリストテレスにおいても倫理学が神的なものに開かれていることを確認した。ここでは「神学」の持つロギコスな超越論的な特徴を視野に入れたうえで信じる者にも信じない者にも普遍的に妥当する一つの倫理学的教説として、山上の説教という人類史上最も有名な説教を理解できるかを問う。伝統的に倫理学においては「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」、「幸福に値する人生」はいかなるものかが問われてきた。これらの問いは、必然的に人間とは何であるか、その心魂に生起するパトス(感情や欲求)や善悪の判断そして行為と、それらがそのもとに培われる心の様々な力能と言える「態勢(hexis, habitus)」広く言えば「人格的習性(ēthos)」の探求を促す。人間の心魂の力能の習性の学が「倫理学(ēthikē)」であった(cf.EN.II1.1103a17)。

 以下、ナザレのイエスの山上の説教を認知的なものと人格的なものの綜合による倫理学的教説において捉えることにより、福音との関係を明らかにしたい。一般的な人間とはいかなるものかの探求の枠の中で、イエスの人生の教えがすべての人間に妥当する道徳的な教えとして実践的(行為遂行的)効力を持ちうるその論拠を問う。道徳性や有徳性が最高善である幸福をもたらすという倫理説を吟味しながら、山上の説教は道徳的かつ有徳に生きる実践的な力を行為主体に伝達するそのような次元において捉えうるかを問う。

[i] 千葉惠「アリストテレスの神学的倫理学―「神の贈りもの」と「徳の褒美」の祝福による媒介」『ギリシャ哲学論集』XX(ギリシャ哲学セミナー 2024)参照。


Previous
Previous

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その七

Next
Next

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その五