春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その八

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その八

    (本日の録音では塚本虎二先生50周年記念号を昨日拝受し、無教会の流れを振り返っています)。 2024年2月28日

三・二 八福

 イエスは山上の説教において彼が「天の父」と呼ぶ神に祝福される八つの心の在り方、心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(5:1-12)。イエスは詩篇等旧約に展開される「祝福、幸い」を念頭に八度「アシュレーイー(祝福されている)」と山上で叫んだ。「祝福されている(アシュレーイー)、悪しき者の謀略(はかりごと)に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に座らぬ者、・・祝福されている(アシュレーイー)、すべて彼[主]に依り恃む者たち」(Ps.1:1-2:12)。マタイは八福を「マカリオイ」とギリシャ語で彼のシャウトを伝えている。

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における君たちの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で君たちに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。

 八福が三人称で一般的に語られるが、しかしそれはイエス自身を間接的に指示していたことを確認することができる。三人称は神に祝福されている者と聴衆とのあいだの心の在り様の差異を知らせるものであった。聴衆はそのままでは祝福の対象ではなかったのである、ただし、最後に二人称で祝福が語り掛けられる、迫害のなかでも自らについてくるようにとの励ましととともに。「君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき」。イエスは自らの迫害のただなかにあって、或いは今後の厳しさの予見のなかで、その視点から八福を選びだしている。そのことをこの二人称の呼びかけは示している。

 この世の何ものによっても満たされないその霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられない柔和な者その心によって清らかな者そして憐み深い者たちこそ、神が嘉みし祝福する相手なのである、心にかける愛しいものを失い悲しむ者とともに。ここでは罪赦された者の祝福は挙げられてはいない。「祝福されている(アシュレーイー)、不法を赦され、罪を覆われし者たち。祝福されている(アシュレーイー)、主にその咎を数えられざる者たち、その心に偽りなき者たち」(Ps.32:1-2)。イエス自身がことさらこの祝福を挙げなかった理由としては、彼自身が罪なき者であったことが背後にあるであろう。彼自身は当然この祝福に思いを馳せつつも、彼は八つの項目を自ら律法への尊敬とその遵守のもとに、その心の態勢において神に向かう者そして隣人に対して憐みの態勢においてある者、そして神の正義を求め飢え渇き、迫害に耐え平和を造る柔和な者たちに眼差しを向けて枚挙したと思われる。八福はイエス自身のそれまでのそして発話時点からしてその後の生を暗示している。或る時イエスが高い山に登った。彼はそのとき光輝に満たされ変貌を経験したが、父なる神は「わが愛する子、その彼をわたしは嘉みした」(Mat.17:5)と祝福した。その八福を語った人は実はリアルタイムにその八つの祝福を生きる人であった。イエスは八福のもとに生きそしてそれの故に死んだ。山上の聴衆に自らに従う生が祝福であるとして励ましている。

 

「その霊によって貧しい者たち」

 イエスはゴルゴタの丘で断末魔の苦しみのなかで一時父なる神を見失った。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになりましたか」(Mat.27:46,Ps.22;1)。彼はそのとき自らの霊によって貧しくなっていたその状況のなかで、「わが神、わが神」と呼び求めて父なる神に縋り付いていた。それがこの祝福の差し向け相手であることを明らかにしている。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち、天の国は彼らのものだからである」。十字架上でイエスには感知されなかったが、「神はキリストのうちにいました」こと「神は彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」ことがパウロにより報告されている(2Cor.5:19,Rom.3:26)。彼の生は自らの責任ある自由のもとにあるものであったが、同時に天の父との協同作業であったと言うことができよう。

 第一福において祝福の差し向け相手が明らかにされており、イエスの言葉はこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られている。それがたとえソロモン王であれ無一物であれ、その魂の根底に寄り縋る貧しい心だけを見出すとき、祝福されている、幸いだと呼びかけられる。それは天の国に入れて頂けるからだという。

 ここでは「霊」は個々人が聖霊を受領する力能ある部位として心魂の最も根底に備わる「内なる人間」と呼ばれる行為主体のことであり、「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座・主体であることを押さえておく(2Cor.16, Rom.7:24)。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。

かくして「君の宝のあるところ、そこに君の心もある」のであるから、われらの愛するものに応じて、心の向き・関心が定まる(Mat.6:21)。パトスや行為は態勢の徴に他ならない。その内なる人間に即して自らの貧しさを自覚するとき、ひとは自らの宝を天に認識するに至り仰ぎ見る。

 この状態は例えば魂の肉の一つの支配部位である「貪欲によって」経済的に貧しい者になった者とは対比される。ルカの「祝福されている、貧しい者たち」はその意味で「神に寄り縋る」が補われる必要がある、一般的に経済的に貧しい者は頼るものが富者より少ないため、天を仰ぐ機会が多いとは相対的に言えることではあるが(Luk.6:20,cf.Isa,61:1)。他方、イエスは七十人の派遣による伝道が成功したとき、「聖霊によって喜びに溢れた」(Luk.10:21)。これは、その霊によって富んでいる、そのような状態であり、当然これも祝福されている。霊によって貧しい者は天国を求めざるをえず、霊によって富んでいる者は天国の証を得ており、双方とも天国と関係づけられる限りにおいて、「天国は彼らのものだからである」。

 ルターは「汝が心を寄りかからせているもの、それが汝の神だ」と言った。われらは英雄やスポーツ選手やアイドルに縋りつく。彼らに自己を投影し、彼らの成功を自らのものとする。自らの生の喜びを彼らによって満たしてもらおうとする。アリストテレスは自己に向き合わずに、次々に人々と交わることに時間を費やし、自己から逃避ばかりしている人間を「劣悪」と呼んだ。「その劣悪性の故に嫌悪されている者たちは、生きることを憎悪しまた逃避するそして自らを破壊してしまう。悪しき者たちは日常を共にすべき相手を外に求め、かえって自分自身を避けている」(EN.IX4,1166b11-14)。確かにどんなに弱くとも、われらはわれら自身と共に生きていく。そのわれらが自らの霊によって即ち根底において満たされないものを抱えるとき、眼差しは天に向かう。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主が君を助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主は君を見守る方、君を覆う陰、君の右にいます方。昼、太陽は君を撃つことがなく、夜、月も君を撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、君を見守り、君の魂を見守ってくださるように。君の出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」(Ps.121:1-8)。ひとはこうして再び立ち上がる。

 パウロも励ます。「神は、「光が闇から輝きいでるであろう」と語られた方であり、その方はキリストのみ顔のうちにある神の栄光の認識の輝きに向けてわれらの心に照らしたまうた。われらはこの宝を土の器に持っている、それはその力能の卓越性がわれらからのものではなく神のものとしてあるためである。あらゆることがらにおいて圧迫されても困窮せず、途方に暮れても絶望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、いつもイエスの死を身体において(en tōi sōmati)持ち運ぶ、それはイエスの生命がわれらの身体において顕れるためである。というのも、常に、われら生きている者たちはイエスの故に死へと引き渡されているが、それはイエスの生命がわれらの死すべき肉において(en thnētēi sarki)顕れるためだからである」(2Cor.4:4-11)。「肉」は身体を抱えた生物における一つの生の原理である。途方にくれても、祝福された者は絶望しない。最も低いところにセーフティーネットが敷かれそこにキリストが共にいるからである。

 イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている善きものとは異なる善きものがあるのではないかという思いにいたる。「ヘラクレイトスは言う、「驢馬は黄金よりも藁屑のほうを選ぶであろう」。というのも驢馬には黄金よりも食物のほうが快いのである」(EN.X5,1176a7)。この世の富、自らの人徳、名誉そして地位の所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。世の豊かさに満ちている者は一つのことを欠いている、その霊によって貧しいその心を欠いている。それ故に天国の知識をも欠いていよう。

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