春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十二

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十二

 (録音では理論(ロゴス)と実践(エルゴン)の相補性について、水や空気、光のような恩恵の枠のなかで生きるように無矛盾な福音の枠の中で生きることの自然さと恩恵について語っています)。2024年3月6日

天の国

 イエスは様々な場面で悲しむひとであり、柔和であり、義に飢えそして渇いており、憐み深く、その心によって清いひとであり、平和を造るひとであり、それ故に義の故に迫害された。これら八つの態勢にある人々が祝福されるのは、ひとえに、天国に招かれるからである。かくして、天国の住人はそれぞれ掛け替えのない個性を持ちながらも、すべてイエスに似た人々であるに相違ない。イエスのような人々が住む天国になら、他の何をおいてでも行きたいと思うことであろう。「天国は、畑に隠されている宝に似ている、或るひとがその宝を見つけると、隠したそして喜んで自分の家に戻り、そして彼が持っているあらゆる持ち物を売りそしてかの畑を買う」(Mat.13:44)。ひとはここに逃避的な宗教の嫌な臭いを嗅ぐでもあろうが、この人生を正面から引き受ける限りにおいて、最も透明な清い場所との関連でこの世界を秩序づけることは非難されることではないであろう。

 天国についての思弁、妄想は旧約聖書においてはほとんど見られない。これは著しいことである。ユダヤ教の一派であるサドカイ派は復活を否定していた(Mat22:23)[i]。この不可視な世界にアクセスが可能であるとすれば、神の身許から栄光を捨ててひととなったイエスにより理解するしか確かなことは言えないであろう。それ故に、天国のことがらは信仰の問題となる。即ち、心魂の根源において自らがイエスのような人間であるかを問い、彼我の乖離において天国の清さ、完全さを知るに至る、それ以外のアクセスはないと思われる。そしてそれが最も正しい、神の国、天国に対する態度となる。旧約人はキリスト・メシヤを預言においてしか与えられてはおらず、彼らは知らされていない事柄について思弁を弄することはなかった。これは潔い態度であり、それができたのも、生けるまことの神のその都度の畏れ敬うべき顕現に心が圧倒されていたからであろう。

 イエスはその伝統のなかで天の父への直截で親密な祈りを教える。「天にいますわれらの父よ、あなたの御名が聖とされますように、あなたの御国が来ますように、あなたのみ旨が成りますように、天におけるように地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦してください、われらもわれらの負債者たちを赦してしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪からお救いください」(6:9-13)。

 

「平和を造る者たち」

 旧約人とは異なり、彼の軛に繋がれて共に歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与えるものとなる。柔和な者はそのまま喜びと平和を造る者となる。イエスは平和を造る君であった。「祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである」。イエスは「わたしは既に世に勝っている」また「わが御国はこの世界に基づいていない」とも言った(John. 16:33,18:36)。パウロも語る、「われらの国籍は天にあり」(Phil.3:20)。平和を造る者は「神の子」と呼ばれるであろう。宝を天に持つ者はこの世界で争わず、譲ることができる。平和を造る者は信仰の存否にかかわらず、柔和であることをめぐっては誰もが同意するであろう。というのも、競争心や闘争心、支配欲の強い者は平和を造る者とはなれないからである。彼らは正義の名においてひとと争うことを辞さないからである。「主は羊飼い、わたしには何も乏しいものはない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(Ps.23:1-4)。

 神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣した。平和の君イエスは驢馬(ロバ)の子に乗ってやってくる平和の君であった(Mat.21:1-11)。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。預言されたまたそれを遂行するイエスの低さ故に人類は平和への希望を持つことができる。

 

自己完結的な一つの体に繋がる一部位

 イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストと共にいる限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。イエスは言う、「わたしは葡萄の木、君たちはその枝である」(John.15:5)。パウロは言う、「君たちはキリストの体でありまた諸部分に基づく肢体である」(1Cor12:27)その特徴はパウロによれば機能はそれぞれ異なるが同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは君たちに勧める、それは君たちが皆同じことを語りそして君たちのあいだに分裂がなく、君たちが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、君たちわが喜びを満たせ。それは君たちが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、君たちが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。それは一つの体に与かっているからである。「われらが裂くパンはキリストの体の与りではないのか。パンは一つであるがゆえに、われら大勢であるが一人である、というのもわれらは皆一つのパンに与るからである」(1Cor.10:17)。

 福音の自己完結性のもとキリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。葡萄の木であるイエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ぶものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではなく、自らの自然的な与件の能力の数十倍の実りをもたらすこともあろう。ひとは自己完結的に既に成就された完全性においてあるキリストにつらなるとき、それは彼の体の各部位として繋がる(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であり、自らの役割を知るに至る。

 

三人称から二人称への変換にせり出す自己言及

 第八福まで三人称による祝福者の規定であったが、最後に山上の聴衆に「君たち」と二人称で呼びかけ、イエスは自らについてくるように励ます。「君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における君たちの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で君たちに先立つ預言者たちを迫害したからである」。イエスに従う者たちに彼は「わがために」迫害される者となることの覚悟を求めている。八福の一般的な三人称から二人称への変換による聴衆への祝福の語りかけにおいて、この人称の変換は臨場感、現場感を伴い緊張をもたらす。

 八福はイエスが自ら生き抜く心的態勢であり、彼はそれを実践しているなかで、聴衆にも新しい福音の担い手となるよう励ます。実際終末預言においてイエスはこう語る。「そのとき彼らは君たちを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして君たちはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう」(Mat.24:9)。実際三世紀後半までキリスト教徒への迫害は歴史に刻まれた。歴史の終わりまでイエスの名の故に地の塩、世の光としての役割を担う者となるようイエスの話を聞いてしまった「君たち」は励まされている。それほど神のみ旨は目覚めた者においてのみ遂行されうるものである。「祝福」の諸相において確認してきたように、イエスは旧約聖書が自らの生の預言でありまた保障であると信じている。三人称で語られた八福も実は間接的には語るイエス自身の(1)自己言及であった。それ故にこれも彼は神に祝福された者であったという信によってしか突破できないそのような祝福である。

[i] 千葉惠「聖書の死生観―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―」『死生学年報2022』(東洋英和女学院大学死生学研究所編 2022)。

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