春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十三

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十三

(録音においては、預言者的な生の八福をおえましたので、これまでのまとめを最初に語りました。途中からお聞きの方はこれまでの要約としてお聞きください。今回からモーセ律法の純化、先鋭化の話です。イエスは一挙手一投足において純化された律法を満たしつつある、その生の前提、イエスご自身の律法理解を語っています。

三・三 山上の説教の倫理学

三・三・一 天と地の透明性のシミュレーション 

 山上の説教は「天国」や「地獄」への言及など宗教的言明の纏まりに相違ないのであるが、イエスは倫理的主題について論じ研ぎ澄まされた良心にとって咎めとなり宥めとなって心に残る信じる者にもそうでない者にも人間一般に妥当する一つの倫理学説として読むことを可能にする議論を展開していると思われる。それはひとの心が光に照らされ一切明らかになるところでの人間の偽りなき生の一つの想定(シミレーション)が展開されていると捉えることができるからである。父と子の人格的な自己完結性を括弧にいれるとしても、そこから導出される普遍的な言明は完全な理解を可能にするものであり、一切を知り正確な審判を遂行する何らかの知性体を前にしてひとはどう振る舞うのが合理的なのかは一つの倫理的問である。

 その明らかさは神の憐みと律法である。一方は自然事象を媒介にし、他方はモーセへの十戒の啓示を媒介にして明らかにされている。ここではまず律法について、イエスがいかなる見解を持つか、そしてこれに関しても彼自身はいかに受け止めているかを明らかにし、それが倫理的地平を形成すること、そしてそれが倫理から福音に移行することにより、律法が満たされることを確認したい。 


三・三・二 律法遵守への尊敬と福音のリアルタイムの実践


 イエスは律法への尊敬のもと自らの基本的な立場を表明する。「わたしが律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと、君たちはそう看做すことがないように。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、君たちに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最も小さい者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるその者は天の国において大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは君たちに言う、もし君たちの義が律法学者たちとパリサイ人たちよりもいっそう優るのでなければ、君たちは天の国に入れていただくことはないであろう」(5:17-20)。

 「聖書」は「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集されている。それは神の意志が「モーセの律法」「業(わざ)の律法」から「キリストの律法」「信の律法」への知らしめにおいて展開されたことに対応する(Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。その展開のなかで、イエスは旧約から新約の途上において、神の意志の表れである「モーセ律法」、「業の律法」への衷心からの尊敬を表明し、終末に至るまで「律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはない」と主張する。ただし、イエスもパウロも数百の律法を愛の律法に収斂させており、愛が満たされるとき、一切の律法が満たされると解している。神への愛と隣人への愛「これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちは基づいている」(Mat.5:18,22:40)。「愛は隣人に悪を行わない。かくして愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。イエスは預言者的生に与えられる八福に続き、旧約聖書出エジプト記において報告されている神の意志であるモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝える。

 ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、自己義認の自己満足のうちにいるパリサイ主義者の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心に潜む偽りをモーセ律法の急進化、内面化そして純化により指摘する。その論法はまず定型句で「君たちは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは君たちに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。ここでも一人称「わたし」が語られ、律法の純化の背後にイエス自身が満たしつつありまた最後まで満たすであろう神のみ旨・み心が開示される。「あなたのみ旨が天におけるごとく地においても成りますように」(6:10)。ここではそれは具体的に殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される、そしてそのうえで律法成就の道を知らしめる。

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