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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その一

春の連続聖書講義として「方舟」64号に掲載した「山上の説教における福音と倫理」を何回かにわけて、それも解説を加えながら公開いたします。そのつど録音された文章をその都度掲載します。

山上の説教における福音と倫理 (その一

                                        千葉 惠 2024年2月16日

 

「イエスは、毎日、宮で教えていた。祭司長や律法学者、民衆の指導者たちは彼を殺そうと謀ったが、どうすべきか術を見出さなかった。というのも、すべての民衆が彼に群がって聞いていたからである」(Luk.19:47-48)。

「パウロはアゴラで、毎日、居合わせた人々と議論した。また或るエピキュロス派やストア派の哲学者たちが彼と議論した」(Act.17:17-18)。

「人間にとっての最大の善は、毎日、徳についてまた他のものごとについて議論を交わすことである、それらについて君たちは私が自分と他人を吟味しているのを、また吟味なき生は生きるに値しないと問答するのを聞いてきた」(プラトン『ソクラテスの弁明』38a)。

 

 

序 

本稿においてナザレのイエスの山上の説教(「マタイ福音書」五―七章)を秩序ある仕方で理解したい。イエスはそこで普遍的な倫理学の析出を可能とする一般的な人間事象の認識を述べている。「君が量る量りで量られる」や「木は実によって知られる」などの心魂の態勢と行為のあいだの法則的な命題は善悪因果応報の跳ね返りの法則とでも言うべきものを導出させ、他の倫理学説との対話を可能にさせる。それにより、信じられるべきものである或いは信によってしか与(あずか)ることのできない「福音」は普遍的に了解可能な自然事象および人間事象のなかで心魂の根源として他の一切の営みを秩序づけるものであることを明らかにしたい。最初にイエスの語りが「福音」のもと四つの種類に秩序ある仕方で分類される複層的なものであることを確認する。続いて、倫理学の特徴を三つあげ、イエスの語りにも対応するものを見出すことができることを指摘し、倫理学との対話を試みそして人間事象の学問的な視野のもとで彼の山上の説教を分析したい。

旧約から新約への橋渡しとなる象徴的な説教群が山上の説教として編集されている。山上の説教はユダヤ教の律法を純化したものとして最も厳しい律法が展開されていると思われるが、それが実はまず福音の宣教であり、純化された律法が福音にいかに秩序づけられることにより遵守する実践的効力を得るにいたるかを伝えている。イエスはこの橋渡しを、奇蹟にも聖霊の付与にも訴えることなく、あまりの直截さと端的性の故にひとには躓づきを与えるが、誰もが少なくとも文字的意味を理解できる言葉のみにより伝えている。この説教をそのまま自ら実践し、旧約の古い革袋を自ずと内側から破り、福音の新しい革袋に喜びと平安そして生命を注いでおり、それによって律法が遵守可能であることを身をもって証している。

無償の「贈りもの」である罪の赦しの「福音」は天の父である神とその子イエスの協同作業として自己完結的に実現されている(Rom.3:24)。新約聖書において報告されているイエスの言葉の核である「福音」はその生涯の途上においても受難と復活においても福音の自己完結性のゆえに自己言及的なものであり、八つの祝福そしてモーセ律法の純化、先鋭化双方ともにイエスの言行において十全に理解されるものとなる。すなわち、彼は(旧約)聖書へのひたすらなる尊敬において自らの生を作り上げるが、預言と律法は彼を指示しまた彼において成就されるものであり、「聖書全体」がそれ故に人類の歴史全体がイエスとの関連において理解されるものとなっている(Luk.24:27)。「家を建てる者が退けた石が隅の親石となった」その内実を倫理学との対話を通じて普遍的な仕方で確認する(Ps.118:22,Luk.20:17)。

 

第一章 イエスの語りの複層性

一・一 「福音」の宣教と自己言及

 

ナザレのイエスは「彼に群がって聞き」にくる群衆にエルサレムの神殿やシナゴーグにおいてそしてガリラヤの野原や山上において何を語り、何を教えていたのであろうか。彼はアブラハムやイサク、ヤコブのイスラエルの族長たちに導かれた歴史の帰趨について、そして神のみ旨・み心(thelēma)は、モーセに啓示された律法を介して知らされていることまたイザヤやヨナ等の預言者たちの働きを介して知らされていることを語り教えた。彼は時空の外にいて天地を創造し、永遠の現在のもとに一切を知っている全知全能の「天の父」とそのみ旨について語った(Ps.139)。彼は天の父のみ旨を知っておりそれを教えようとした(ただし、終わりの時を除く(Mak.13:32))。彼は「天の父のみ旨を行う者が天国に入れていただく」ことを直截に語った(Mat.7:21)。彼は律法と預言者を通じて聖書に伝えられる神のみ旨・意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。

イエスがユダヤ教の改革者として始めた宣教活動は福音・善き音信、即ち神の国の救いを伝えるものであった。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(Mak.1:14-15)。イエスは聖書に即し福音を「イスラエルの失われた羊たち」に伝えることにより宣教活動を始めたが、彼は人々の信に出会い、その根源性の故に異邦人に対しても伝えたことが報告されている(Mat.15:21-28)。福音は自らを介して実現されるものであり、「福音」はパウロによれば、「信じる[と神が看做す]者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:4)。聴衆には悔い改めてこの新しい教えを信じるように促した。それが彼の短い宣教活動の内実であるが、その前提にイエスは聴衆が神のみ旨を知ることができそしてそれをなんらか遂行できると考えていた。

イエスの語りは複層的であり、概して四種類に分類されよう。(1)宣教する者と宣教される者が同一であることに基づき自己言及的に語られる。(2)神の憐みは天と地の連続的なものとして光や野の百合空の鳥など自然事象の比喩を介して語られる。(3)天と地の不連続性は人間事象の不十全性、悪や罪に由来するが、地上のものごとの譬え話によりまた歴史の帰趨をめぐる自らの預言や警告、叱責により架橋が試みられる。(4)自然事象、人間事象についての一般的法則が語られるが、この次元での発言が主に福音を一般的に支える倫理的な法則性を導出させる。

福音書が報告するイエスの言葉の(1)自己言及が極めて特徴的である。神の国の福音を宣教しつつ、その媒介者である自らを語る。彼の言動そのものに神の国が何らか今・ここに現在しているそのようなものがこの自己言及である。聖書への尊敬のなかで聖書に基づく歴史の帰趨が自らに結実するその認識が語られている。「聖書全体」がイエスを預言しまたイエスにおいて成就されそしてイエスを介して理解可能なものになるとイエス自身により発言されている。

イエスはガリラヤの野辺においては信の従順の生涯の途上にある。彼はまことの人として(旧約)聖書に記されていることに基づき、神のみ旨を忖度し自らの生を最善の行為選択肢の認知と実践においてその都度構築していった。イエスは自らの生涯が聖書に即したものであるとともに、その預言と律法の成就であるという自己認識のもとに一挙手一投足を歴史に刻んでいた。聖書全体が新しく福音のもとに位置づけられる。この福音の言葉の自己言及性は福音の事象が神とイエスの協同作業であり、自己完結的なものであることに基礎づけられる。パウロが「福音に[君たちと]共に与るために、福音のためにわたしはいかなることをも為す」と語るとき、信じる者に救いをもたらす福音とは何かひとにより与(あずか)られるものであり、福音それ自身は自己完結的なものであることを含意している(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとは自己完結的なものに対しては、例えば修繕の要のない完璧な家があり提供されるとして、受容するか拒否するかのいずれかによってしか関わることができない。その家は清らかで争いも病も死もないと言われ招かれたたとしてひとはどうするであろうか。

福音書に報告されているイエスの言葉には理論的教説の展開は見られない。彼が語る言葉はユダヤ教の伝統のなかで言い伝えられる教説を取り上げ、それを先鋭化したものであり、また自然事象に訴えるものであり、譬え話により具体的に教える。これらはすべて天の父のみ旨がいかなるものであるかを教えるものであると同時に、それは話者であり媒介者であるイエスとの信頼関係の醸成を目的としている。それもすべて心魂の根底における「その通りです、本当です(ita est, verum est)」という承認と同意そして信頼が問われている。その意味ではどこまでもイエスと聴衆者の一対一の関係が基本である。この点について譬え話が著しい役割を発揮する。

イエスは地上の(3)譬え話により天国がどのようなものであるかを語る。イエスは、自ら語る譬えは憐まれていることの自覚のなかで聞き理解する者と聞いてもこの憐みを悟らない者を判別する機能を持つと理解している。同時に譬えは叱責や警告をも発しまた含意しており悔い改めに導く機能を有している。「イエスは弟子たちに言った。「君たちには神の国の奥義が授けられているが、外側のかの者たちにはあらゆるものごとは譬え話のなかで明らかになる」(Mak.4:10)。彼は平行箇所でこう語る、「君たちに天の国の奥義を知ることが授けられているが、かの者たちには授けられていない。というのも、誰であれ(hostis)持っている者は、その者には与えられるであろうそしていや増し与えられるが、誰であれ持っていない者には、持っているものをもその者から取り去られるであろうからである。このことの故に、わたしは彼らに譬えにおいて語る、というのも、彼らは「見るけれども見ず、また聞くけれども聞かずそして理解しない」からである」」(Mat.13:11-13)。

ここで「奥義」とはイエスがメシヤであること、そして復活の勝利により彼の言行の一切が明らかになったときに回顧的に語られている(1)自己完結的な福音への「自己言及」のことが含意されていよう。

イエスは自らの復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシヤ]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明した」(Luk.24:25-27)。この自己言及は復活の勝利を挙げたからこそ語りうるものであった。そのことは、彼が信の従順の生の途上において天と地の媒介者である預言者と律法について三人称で語っていたものごとについて、イエス自ら言葉と行いにおいて偽りなく実現した後には、自らを指示している或いは自らとの関連において理解されるものとなったことを明らかにしている。

天の父のみ旨を明らかにし語る者は実は自らについて語っている一種の自己言及であったことになるが、このような事態は先ず言葉と行いにおいて偽りのない者においてのみ語りうる言葉であったということである。「わたしについてモーセ律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(Luk.24:44)という甦ったのちのイエスの発言は神の子に相応しい言葉であるが、何世紀をもかけて編集された書物が人類の歴史全体を見渡し全体として一人のひとの子にして神の子について記している。言ってみれば、人類の歴史の帰趨はイエス自身への信にかかっていると報告されている。この書物は二千年の歴史の審判を経ているが、おそらく人類史上現在にも後にも他にこのような言語使用を見出すことはできないであろう。

なお福音書記者やパウロは宣教するイエスの言葉と働きを報告することを通じて宣教している。この宣教は間接的であり、種々の事実誤認の可能性は残る(神は人間の弱い言葉を介して伝達されることを許容している、つまり神が許容し認可しなければこのような形でさえ纏められることのなかったであろう書物が「聖書」であり、この意味においてそれは「神の言葉」である)。イエスその人においては自らの使命の認識と遂行のあいだには乖離はないであろう。誰かがたとえそこに乖離がなくとも自己認識つまり神の子として聖書の預言通りの受難と復活を遂げるという自己認識に誤りがある、自己欺瞞であると主張するなら、それは復活によってのみ反駁される。復活は神の専決行為だからであり、イエスに罪がなかったことの証だからである。

甦ったキリストは聖書の預言を自己言及のもとにまとめる。「そして彼らに言った、「キリストは苦しみを受けそして死者たちのなかから三日目に復活する、そして[キリスト]自身の名においてすべての異邦人に罪の赦しへの悔い改めが、エルサレムから始めて、宣教される」と書いてある。君たちはその証人である」(Luk.24:44-48,cf.Act.17:2)。復活については数百人の証人が挙げられている(1Cor.15:6)。一切を創造し統べ治める神から派遣され永遠の生命を与える神の愛の体現者であるイエスの言動に関わる者は、宣教する者と宣教される者が同一人である彼の言葉を真理であると信じ神の子キリストであると受け入れるか否かの態度決定が常に迫られている。そこでは「信じる」の対義語は「信じない」ではなく「裏切る」となるそのようなものである。宇宙を統べ治める父と子の協同作業の外に出ることのできる者は誰もいないからである。これが彼の言葉の根源的な層である。

パウロはこの福音の包括性をこう語る。「もし神がわれらの味方なら、誰がわれらの敵であるか。そもそもご自身の子を惜しまず、われらすべてのために彼を引き渡したその方が、いかに彼と共にあらゆるものをわれらに賜わらないということがあろうか。誰が神に選ばれた者たちを告発するのか。神が義とする方である。誰が罪に定めるのか。キリストは死んだ、いやむしろ甦り、神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう。誰がキリストの愛からわれらを引き離すであろうか。艱難か、災害か、迫害か、飢餓か、裸か、危険か、それとも剣か。まさにこう書いてある、「あなたの故にわれらは終日死に渡されています、われらは屠られる羊として認定されました」。しかし、われらはこれらすべてにおいてわれらを愛する方を介して勝ち得て余りある。というのも、死も生命も天使も支配者も現在あるものも来るべきものも諸力も、高きものも深きものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないとわたしは確信するからである」(Rom.8:31-38)。

偽りの預言者が現れ自らをそう主張したとして、その言動を疑い偽りと判断しそれを信ぜず無視する者は裏切ったことにはならない。そこに愛はないからである。イエスは自ら神の子であると信じ、父のみ旨に従いその言動に偽りがなく各人の罪の赦しのために生涯を捧げた。これを信じるのか裏切るのか。なぜかと言えば、父は自らの専決行為として御子と自らの信義そして愛の証に彼を甦らせたからであり、この大きな物語の外にいる、逃れうる場所を持つ者は誰もいないからである。換言すれば、各人はこの物語の登場人物であり、この物語は信の根源性のもとに語られ展開されており、受け入れない者は不信な者として裏切るそのようなものだからである。それ故にこそ福音とはあらゆる者に宣教されねばならないそのようなものである。「多くの偽預言者があらわれ、多くの者たちを惑わすであろう。不法がはびこる故に、多くの者たちの愛が冷やされるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はすべての居住地においてあらゆる異邦人に向けて証言(marturion)として宣べ伝えられるであろう、そして終わりが来る」(Mat.24:12-14)。イエスの福音の言葉はこの根源的な(1)自己言及の層を持ち、人間中心的に人間とその魂を普遍的に考察する倫理学はこの層を持つことはできない。

 

一・二 天と地の連続と不連続

 

イエスは天と地の媒介者として神の憐みと祝福を山上の聴衆に伝える。これが彼の(2)天と地の連続性の言葉である。彼は人間としてまた同胞ユダヤ民族として共有しているもののなかに、天の父のみ旨、意志を見出し、それに新たな光をあてる。彼はガリラヤの野辺の百合の花、空の鳥を愛で、生命を育む光や雨そして親子の情愛に見られる自然を介して働いている天の父の憐みと恩恵を語る。「空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、君たちの天の父は鳥を養ってくださる。君たちは鳥たちよりも一層優れているのではないか」(6:25-26)。

この自然を介した天の父の憐みの宣教のなかでイスラエルの伝統において預言者たちとモーセにより与えられた律法に聴衆の心を向けさせる。彼は、政治的、宗教的圧制、弾圧そして貧困、病などの苦難のなか精神の輝きを失い諦めの思いに支配されていた同胞に、パレスチナの自然と伝統を正面から引き受け聴衆を新たな発見に導く。

天と地の媒介は自然事象や人間事象であり、それを明晰に伝達するのはイエスの言葉である。天と地は天来の光の比喩によりその連続体であることが伝達される。他方、イエスは(3)その不連続にも聴衆の思考を喚起する。一方で「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる」(5:45)その自然の恵みを語りつつも、地は「嵐」や地震などの自然災害に見舞われる(7:27)。一方「君たちの誰がパンを欲しがるおのが子に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように君たちは悪い者でありながらも、自分の子には善いものを与えることを知っている」のであり、これにより憐み深い父を連想させつつも、他方、地の父は「悪い者であり」虐待し姦淫する者たちである(7:9-11,5:27)。イエスは律法の純化により地上の不十全性を知らせつつ、天に眼差しを向けさせる。「君たちにあっては地上に諸々の宝を積むことがないように、そこには染みや虫が喰いそしてそこには泥棒たちが忍び込みそして盗むところである。しかし、君たちは天に宝を積みなさい、そこには染みも虫も喰うことがなくまた泥棒たちが忍び込むこともまた盗み出すこともない。というのも、君の宝があるところ、そこに君の心もあることになるであろうからである」(6:19-20)。この不十全な悪しき世界にあって、天の父が自然と人々を育み、導いてこられた祝福に思いをよせるように聴衆を導く。連続性は憐みという天来の光により確保され、不連続性は人間の「悪さ」によって生じる。この地上の否定的なものごとに不平を言い煩うのではなく、天の父の憐みに眼差しを向けさせる。

生命の力に息吹く神のみ旨が預言者と律法の純化、先鋭化を通じて、道徳的次元を乗り越え、人間の本来的な在り方としてまた新たな生命の在り処として言葉によって伝えられる。媒介者であるイエス自身が理解されるとき、連続と不連続の緊張は解消する、ただし、あくまでも肉の弱さにおいてある者たちにおける解消であり、常にその媒介者への立ち返りが不可欠となるそのような解消である。山上の説教はイエス自身の生涯を表しており、彼自身において満たされることにより律法から福音への真っ直ぐな道を指し示している。実際八福はすべてイエスの生涯において確認されること、そして純化されたモーセ律法はイエスにおいて実現されたことを確認する。このことは基本的に連続と不連続そして一般的な自然事象、人間事象((2)(3)(4))の言葉において語られる山上の説教も間接的に或いは預言的に(1)自己言及的でありイエス自身を指示していることを含意している。

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イエスの四種類の語り

 本年度最後の日曜聖書講義です。山上の説教と倫理学がいかに対話可能であるかを模索してきました。福音の語り(宣教する者イエスと宣教される者が同一である自己言及)のもとにいかに憐みや祝福による天と地の連続性の語りそして「悪い者」の故に不連続のなかで譬えや警告により地から天に架橋する語りが秩序づけられるかを吟味します。さらに第四の語りの層としてイエスは善悪因果応報の一般法則を導出することを赦す事例を挙げている。例えば、「君が量るその量りによって量られる」、「木は実によって知られる」そして「宝のあるところ、そこに君の心がある」であるが、これらは一つの倫理的地平を表現しており、福音と道徳的次元がいかにかかわるかを吟味しています。

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山上の説教における道徳的次元を内破し確立する福音

 「山上の説教における福音と倫理」「方舟」64号を書き上げ、60年かかってようやく福音と律法(道徳的次元)、旧約と新約、イエスとパウロの関係、秩序づけができ安堵しています。春休みに連続講義として掲載いたしますが、今週は「木は実によって知られる」の一般法則の解釈として従来の三種類とは異なる第四の立場を展開しています。


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山上の説教は福音である

山上の説教は福音である

 2023年12月24日

本年最後の講義です。ようやく山上の説教を福音という視点から読むことができ、パウロともスムーズに関係づけられることを話しました。良いお年を。千葉惠

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山上の説教―山のうえにおかれた街は隠されることができない—

山上の説教

 「山のうえにおかれた街は隠されることができない」

(録音は基本的に以下の文章の朗読ですが、全体が以下の文章において改善されています。文章において補っていただければ幸甚です)。

はじめに—自然と信仰の循環を可能にする確かさ—

 この夏の異常な暑さ、そしてアドヴェントの冬のひきしまった寒さの日々。歳月の移ろいのなかで四季は巡りゆく。この確かな自然法則のもとにあることの恩恵、自然の循環の恩恵を思う。それと同様に、神のキリストを介した憐み、神にはわれら一人一人が独子をたまうほどに値高き者と認識されていることの憐み、これがひとを動かし、そこに信仰生活の循環を引き起こす。神の憐みへの信仰そして信仰に基づく正義・義、さらに義の果実としての愛へさらにはその愛の不十全性の自覚のもとに悔い改め、神の憐みに立ち戻る。この信仰生活の循環も確かなものが明確に中心にあるからこそ、望むらくは中心をめぐり螺旋的に深化しつつ、繰り返すことができる。神の憐みの先行性こそ、恩恵に他ならない。

一、山上の説教の主題—天の父のみ旨—

 ナザレのイエスによる山上の説教は広くは「いかに生きるべきか(pōs biōteon)」(アリストテレス)という倫理学の問への限界的な生の描写として人類がもちえた最も理想的な道徳的生として今日に伝えられてきた。この説教の故に、ひとは或いは遵守の困難さにまた現実生活との折り合いのつかなさに絶望や無視のうちにうちすごしてきた。或いは、ひとはこの印象の強い一群の言葉を記憶に留め廃棄せず受け止めて来たという事実、誰かにより語られねばならなかったものの喜ばしき伝承において、人類に絶望しない証と捉えられた。この究極の道徳を説き、信の従順の故に自らその教えを生き抜いた人がひとりおり、そこに偽りがなかったからこそ「権威」(Mat.7:29)があったと報告されている。この人は人間本性、人間とは何かの理解をめぐり、父のみ旨の行使を介してその報いとして「天の父の子となる」(5:45)ことを教えた。

  このあまりの尋常ならざる教えに、或る人は純化された律法の遵守が目的ではなく、遵守困難さを知らしめ福音に追いやる機能を持つ、或いは心情において善い意志を持つ限り、果実がなくとも善い木であり、その善意志だけが問われていると解し、また或る人は終末が切迫したなかで、倫理的にこの世に別れを告げ完全な妥協のない新時代への備えと解されてきた(H ヴェーダー『山上の説教』序章参照(日本キリスト教団出版局 2007)。

 ナザレのイエスは、しかしながら、揺るぎのない仕方で、文字通りのことを意味しつつ、基本的に実行可能なものとして語り、自らそれを生き抜いた思われる。さもなければ、彼は聴衆に不可能なことを要求し苦しめるだけの教説を説くこととなり、彼の偽りのない憐み深い生と相容れない。

 彼はこの説教において聴衆の置かれた圧制、貧困、病、無学等の現状を正面から引き受け、宗教的、神学的な用語をほとんど用いず、奇蹟の執行も聖霊への言及もなく、道徳的次元を共有しつつ、福音を指し示す。彼は、対人論法により、天と地の媒介者として日常経験することによりイメージ喚起力の強い光や雨、野の百合空の鳥のような自然事象、そして自らの言葉を媒介として天と地の連続性を神の憐れみのもとに明らかにしていく。

 イエスは、光の透明性のなかで、天と地は薄い皮膜一枚に隔てられているように捉えており、その隔ての被膜そのものが光のゆえに透明にされ、連続的な天と地を隠れなき光のもとに捉え直す。「君たちは世の光である。山の上におかれた街は隠されることができない。・・このように君たちの光を人々の前に輝かせなさい、それは人々が君たちの良い働きを見て、君たちの天の父を崇めるようになるためである」(5:14-16)。彼はその透明な光のなかで、王であれ無一物であれこの世のいかなるものにも満たされないその霊によって貧し者、その心によって清らかな者、義に飢え渇く預言者的な生を純化し、彼らを祝福する。また「君たちは昔の人々にこう語られたのを聞いた。・・しかし、私は言う」(5:33)とモーセに授けられた神と人への正しい交わりの律法を先鋭化する。これらの純化、先鋭化はイエスの生涯を確認するとき、彼がはからずも自らに課した生であり、彼はその預言者的また律法的な生を十字架まで生き抜き、最も低い所に祝福の安全網を敷いた。

二、山上の説教における信の根源性

 イエスは「イスラエルの失われた羊」(15:24)に遣わされたという自覚のもとに、「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(9:36)。彼は次第に形骸化して伝承されるユダヤ教の伝統の改革者として、神の言葉に生命を取り戻し、端的に神の意志、み旨を語り掛ける。「天にいますわが父のみ旨を行う者が天の国に入れていただくことになる」(7:22)。「み旨・み心(thelēma)」とは神の人間に対する意志、人間認識であり、神が価値あると看做すものが人間にとっても価値あるものである。「君の宝があるところ、かしこに君の心もある」(6:21)と語られるように、たとえひとは自ら追い求める美や良きものの価値を主張したとしても、その宝が次第に神のみ旨と合致するようにイエスは教える。主の祈りにある、「あなたのみ旨が天におけるごとく地においても成りますように」(6:10)。

 天と地はこのみ旨により、法則的に秩序づけられており、人間にとっての本来性は「まず、ご自身の御国とご自身の義を求めよ」(6:33)と父との正しい関係を形成することに成り立つ。この「求めよ」は良いものをくださる方に信頼し、「信じなさい」の平易な言い換えである。「君たち求めなさい、そして与えられるであろう、探しなさい、そして見出だすであろう、叩きなさい、そしてそれは君たちに開かれるであろう。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(7:7-8)。この現在形による命令と未来形さらに現在形による応答には、父の憐みの現前が前提されており、イエスは八福と同様に確信のもとに語ることができる。何を着ようか、食べようか、生活の煩いの前に、「まず」、神との正しい関係を持つよう求めなさい。そして神はアブラハム、イサク、ヤコブらをその信仰によって義としたように、義としてくださるであろう(cf.8:10-11,Heb.ch.11)。

 旧約の信に基づく義の先駆と共に、この教えはイエス自身により実践され、その後義認の系譜として連綿と受け継がれる。父なる神は御子の信の従順の生涯を嘉みした。「神の信」に対応する御子の信の従順の生涯がひとの神への信を基礎づけ、信の本性である双方向性、互恵性を基礎づける(Rom.3:3)。「まず、ご自身の義」に示される根源的な信には信の応答のみがふさわしい。それ以外、何によって神に対面するのか。十字架上の御子の父への望である人間の罪を赦すことをかなえるべく、神は御子を血による贖いとして「差し出した」(Rom.3:24)。神は「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)、十字架に至る御子に帰属した信を介して「君たちに御子の義をあげよう」と差し出された。われらはただ「ください、ありがとう」と言って受け取る。これが父と子の信に基礎づけられる、ひとの信の根源性である。この根源性は「信仰のみ」、「信仰+αではない」という仕方で語られることがある。ルターは「われらは乞食だ、それが本当だ」と言い憐みを求めつつ死んだと伝えられる。その彼は「信仰とはくださいと言って差し出された手である」と言う。何を疑う、求めよ、さらば与えられん。

 イエスは自らの信の歩みの途上において、信の根源性による他の一切の秩序づけをこう語る。「君たちの天の父は、これらのもの[衣食住]がみな君たちに必要なことをご存知である。まず、ご自身の御国とご自身の義とを求めなさい、そうすればこれらすべてのものは君たちに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな」(6:32-34)。

 神は憐み深く、道徳的態勢(心の実力、構)以前に「善人にも悪人にも」(5:45)等しく雨を降らせ、太陽を昇らせていたまう。「明日のことまで思い煩うな」(6:34)と、毎日を野の百合空の鳥を養ってくださる天の父を仰いで、子が父にパンをねだり求めるように信頼せよと教える。「君たちの誰がパンを欲しがる自分の子供に石を与えるであろうか」(7:9)。かくして神の憐れみへの信仰こそ、神との正しい関係であることをイエスは教えている。これは福音の宣教に他ならない。「福音」とはパウロによれば「信じる者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。

 かくしてイエスはその一挙手一投足において信の従順の成就に向かいつつ、山上の説教において旧約の道徳的次元を内側から破ってアブラハムらに先駆のある福音を打ち立て、そのもとに新たに律法を秩序づけている。旧約の古い革袋を破って新しい天の国の生命と祝福があふれ出す。モーセの「業の律法」に基づく義は旧約律法の革袋に注がれ、福音の「信の律法」の革袋に天来の新しい生命が注がれる(Rom.3:27)。イエスは言う。「人々は新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。

三、先行する神の憐れみへの信仰

 天と地の連続性において神の憐みが先行する。イエスは人間が髪の毛を白くも黒くもできず、「思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすこと」(6:27)もできないのと比し、天の父は認知的、人格的に完全な方であると伝え、憐み深い父のみ旨を行うことにより、ひとも完全な者になると励ます。「わたしは君たちに言う、敵たちを愛しなさい、自分を迫害する者たちのために祈りなさい。君たちが天にいます君たちの父の子となるためである。父は悪人たちにも善人たちにも太陽を昇らせ、正しい者たちにも不正な者たちにも雨を降らせてくださる。・・そのとき、天の父が完全であるように、君たちも完全であることになろう」(5:44-48)。天の父は人間の善悪、正邪の道徳的次元以前に人類に対し分け隔てなく憐み深い。

 この説教においてはその憐み深さは言葉で伝えられているが、イエスは信の従順を貫きつつあり父のみ旨を十字架上で遂行した時点において、言葉と行い双方によりイエス・キリストを介して神の憐れみ深さ、福音が最も明確に知らされるに至る。その意味において律法から福音への橋渡しの現場が山上の説教である。イエスは生の現場で自らが共にいるとして招く、「疲れた者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。わが軛は負いやすくわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信であり、イエスは単に言葉のみではなく自らと共に生を歩むよう励ます。それ故に彼の実人生のただなかで信の対象は天の父のみならず、彼において顕されつつある神の憐れみへの信となる(Rom.10:9,8:39)。

 

四、二種類の神の義と神との共知としての良心

 山上の説教では二種類の神の義が語られる。それは、信に基づく義と「君たちの義がパリサイ人のそれに優らなければ天の国に入ることはできない」(5:20)と語られる文脈における業に基づく義であり、旧約のただなかで福音が切り開かれていく。業に基づく義は旧約律法において語られ、「業の律法」即ち「モーセ律法」(Rom.3:20,27,1Cor.9:9)は神の山におけるモーセに対する神の顕現により知らされている。十戒は「君たちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(Exod.20:20)。そこでの行為は偶像を拝むー拝まない、姦淫するー姦淫しない、貪るー貪らない等二者択一であり、一方を選択するとき義であり、他方は罪とされ、「わたしを愛し、戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与え」、否む者には「父祖の罪を子孫に三、四代に問う」相応の報いがある。モーセ律法を介して知らされている神のみ旨は罪を犯さないようにする人生の規範、道徳訓である。これらは外的に観察可能な規範である。これは行為選択への加点と減点による裁きであり、その意味で人間にも義と罪は相対的に判別可能なものとなる。しかし、信に基づく義は端的に神の前のことがらであり、神の判断に属する。そして神の判断は御子の信の生涯に明らかにされており、そこでの信の対義語は信じないというよりむしろ裏切りであり、人は信による証を立てていく。

 光が媒体を透明なものにするように、神は「隠れたことを見ている・・願う前から君たちに必要なものを知って」おり一切が明瞭なものとして眼前にある(5:6-8)。これほどの透明性のもとでは心は隠すことができず良心が神の言葉を相手にすることにより研ぎ澄まされていく。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り信に招く。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく、これらは神ご自身の認識であり、「神に明らかなことがらが君たちの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

 自らにはとりわけ厳しく、隣人にはひたすら善意のもと赦すそのような教えは良心の咎めを容易にもたらす。良心の痛みの除去は神がキリストにおいてわれらを理解しておられることを共に知るときである。この共知についてパウロは言う、「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えないためである」(Rom.6:6)。この「われら」の知識主張は聖霊の今・ここの媒介なしに理解できない。聖霊は二千年前と現在を自由に往来し、聖霊があの二千年前の過去の出来事が「われらの古き人」の死であると神が看做してい給うことを呻きを以て今・ここで執成している。「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものは何もない」その信において良心の咎めは拭われる(Rom.8:39)。イエスが「この女性の多くの罪は赦された、というのも多く愛したからである」(Luk.7:47)と語るとき、罪赦されたことの徴は愛し得ることにあることを知らされており、イエスの軛に繋がれ愛敵の道に歯を食いしばって共に歩む、そこに罪赦されたことの証を得るからである。

 生命にいたる狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。その方は永遠の生命のうちに神の右の座にいて或いは各人の心魂の根底において聖霊として「神に即して」(Rom.8:27)執成していたまう。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる(Gal.2:20)。数百ある律法は「律法の冠」である「愛」に収斂されている(Rom.13:10)。イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」(5:18)その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,22:40)。「敵をも愛する」隣人愛に他のすべての律法を秩序づける。彼は野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証である復活の生命を介して、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。そこでは「信の律法」により最も純化されたモーセの「業の律法」が秩序づけられたと言うことができる。

 かくして、山上の説教はもはや審判の言葉としてではなく、希望の言葉として受け止め直される。山上の説教は信から義へ、義から愛への一本道の究極に位置することになるであろう。イエスは福音成就の途上において山上の説教を語り生き抜いていた。パウロはその十字架と復活の視点から福音と律法を秩序づけることができた。かくしてイエスとパウロは狭き真っすぐな道の途上の言葉とその生の成就の視点として調和する。倫理学の主題である「ひとはいかに生きるべきか」の当為「べし」に含意される実践的効力の問は、イエスとパウロにおいては「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)その力強い信の狭い真っすぐな道を歩むことにある。

五、旧約の善悪因果応報から新約における「贈り物」へ

 天地の連続性は以上の二種類の正義の法則によって秩序づけられている。天と地を包括する法則が働いている。旧約的な文脈にある山上の説教においては、それは勧善懲悪の善悪因果応報或いは「跳ね返りの法則」と呼ばれよう。行為主体の態度如何が問われ、行為選択の法則はこうまとめられる。「もし君たちが、人々が君たちに為してくれるよう欲するものごとがあるならば、そのかぎりのすべてのものごとを君たちもまた彼らにそのように為さねばならない。というのもこれが律法であり預言者たちであるからである」(7:12)。イエスはこの「黄金律」において、聖書の律法と預言者たちは愛することに集中していたことを伝えている。これは神の憐みの先行性を人間同士の交わりに移行させる命令である。まず自分から善意を行動で示そうと励まされる。行為主体の善意の先行性が、良き跳ね返りの生起する必要不可欠な要素である。神がわれらの信による応答を待っているように、人間同士の交わりにおいても善行の先行性が信頼関係を生み、豊かな応答の好循環が生起する。黄金律は善き行為の始点たれという励ましである。

 他方、跳ね返りは悪意や偽りにも生起する。「目には目を、歯には歯を」(5:38)のような同害報復をも含め、相対的な分配としての正義は因果応報として一種の跳ね返りを持つ。「悪行の報いは悪行そのものである」(アウグスティヌス)。或いは悪人は「自ら掘った穴に陥る」(Ps.7:15)。悪の行為選択はまさにその心的態勢さらにその実害において罰を受けている(cf.Rom.1:18-32)。この道を歩む者は「すべての律法を満たす義務がある」(Gal.5:6)、「律法を行う者が義とされる」(Rom.2:6)が、誰もそれを充たし得ず、すべての口が塞がれる。「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。律法を介した神による罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。

 山上の説教において敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。パリサイ人の誇りと自己義認には背後に過剰を欲する「貪欲な狼」が支配している(7:15)。外見上の善行のご褒美には貪欲に基づく誇りが伴う余地がある。。業の律法は端的ではなく、相対的、外見的、比量的な正不正を問題とする。

 同様に、自らを優越した位置におく「裁く」ことは神のみ旨ではない。それは最初の人間が「善悪を知る」木の実を食べて以来、人間が神に背き生の主人公となっている象徴として挙げることができよう。「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも君たちが裁くその裁きにおいて君たちは裁き返され、君たちが量るその量りにおいて君たちにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。・・神聖なものを犬にやってはいけない、君たちの真珠を豚に投げてやってはいけない[むしろ飼料を与えよ]、豚たちがそれらを脚で踏みつけ、向き直って君たちに突進してくることのないように」(7:1-6)。

 ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、義人と罪人を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(25:31-33)。人は神の位置を占めえない。貪欲や優越感はその跳ね返りを報いとして受ける。パウロは途上の人間が「罪に定める(katakrinein)」時、それは自らに跳ね返ると言う。「すべて裁いている君、ひとよ、君には弁解の余地がない。なぜなら、君は他人を裁くそのことがらにおいて、君自身を罪に定めているからである。というのも、君、裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ「業の律法」のもとにあり、赦しではなく優越者として罪に定めあっている。「裁くな」においてイエスはモーセの業のそれ自身における律法の適用の否定にまで至っている。これは神において信の律法による業の律法の乗り越えを意味していよう(cf.Rom.7:4,8:2,Gal.2:19「[信の]律法により[業の]律法に死んだ」)。

 「裁き」が「梁」や「塵」等様々なレヴェルで遂行されているように、誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する規準として、ひとは普遍的に量りを持つ。ここでは「裁き」と異なる「識別すること(dokimazein)」(cf.Rom.14:22)の重要性が説かれ、「君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになる」そのような愛が両者を判別する。豚には真珠ではなく飼料を与えることが最善の行為選択肢である。ひとは誰もが自らの認識規準のもとでひとや出来事を識別、判断せざるをえないが、それは神のみ旨に即して憐みを規準にして遂行せよと命じられる。

 親切と高ぶりのもとに裁きを遂行することには天と地の包括的、長期的な善悪因果応報のもとに跳ね返りがあるであろう。そこで「報い」は一つの対人論法において用いられ、功績や罰を問う因果応報と呼びうる次元で語られる。旧約律法の理解として因果応報を前提にすることは、イエス自身が理解する信に基づく正義と緊張におかれる。神の憐れみの先行性への信は根源的な双方向性のもとでの受容、応答である。これは神主導の非可逆的な関係であり、対人関係における先行性とは異なる端的な、無比較的、無非量的な憐みの「贈りもの」(Rom.3:22)であり、その応答が受領、承認としての信である。

 神の憐みの前提のもとでの八福の結論において「喜べ、大いに喜べ、天における報いが大きい」と語られるとき、比較的かつ相対的な配分的正義ではなく、イエスに従う者への端的な信に基づく正義の次元における神からの祝福が語られている(5:12)。祝福される者たちは比較を絶した善の贈りものを前にして神に賛美を帰しつつも、報いを受けることを自らの功績と唱え、誇ることはないであろう。功績的ではない信に基づく正義がここでは開示されている。というのも、神の前ではこの「報い」は十字架上で「赦してやってください」というイエスの願いを父なる神が聴き届け、かなえる「贈り物」と理解すべきことがらだからである(Luk.23:34)。「報い」は第一に御子の信の従順への報いである。イエスへの信頼が神に嘉みされ、功績への顧慮を伴わない恩恵として与えられる正義とその果実がこの言葉「報い」において理解される。加点減点の善悪因果応報の旧約的領野は過ぎ去っている。無比較的、端的な善がそこにある。パウロは言う、「それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである」(Rom.3:27)。イエスと共なることに人生の一切が秩序づけられる。「誇る者は主において誇れ」、キリストの軛を共に担えることに誇りを見出す(2Cor.10:17)。

六、結論

 彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から「柔和と低さ」が伝わり、山上の説教を少しずつ生きうるものと「変身させられ」ていくであろう(Rom.12:2)。「憐れむ者は祝福されている。憐れまれるであろうからである。その心によって清らかな者は祝福されている、神を見るであろうからである。平和を造る者は祝福されている、その者たちは神の子と呼ばれるからである」(5:7-8)。彼の軛を担ぎ主と共にペースを合わせ隣を歩みうること、それは端的な「贈りもの」であり、祝福である。

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聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?

聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?

 これまで、ヨブ記や詩編、イザヤ書、エゼキエル書への参照のもと幾つか箇所で永遠の生命への要求とまではいかないが希求のみられることを確認してきたが、確かにフォンラートが言うように、新約聖書と比する時、一目瞭然にその数の僅かさに驚かされる。楽園の追放から御子の派遣までの準備期間として、預言はされていてもキリストを知らない民においては、今・ここで自然や人を介して働きかける主との応答に忙殺されていたということは言えるであろう。とりわけ、詩篇14篇に見られるように、神との関わりにおいて罪を指摘し続けられるとき、確かに永遠の生命を神に要求することはおこがましいことと看做されたこともその一要因であろう。キリストの復活の生命が証する永遠の生命への求めは見られないにしても、今の充溢、時との和解としてのボエチウス的な永遠は旧約人にも知られていたと言うべきである。というのも、彼らは愛を知りまたその感情実質である喜びを知っていたからである。ボエチウスは「永遠」を必ずしも時間の持続として捉える必然性はなく、「全的な、限定なき生の同時かつ完全な把握(Aeternitas est interminabilis vitae totae simul et perfecta possessio)」と規定している。これは新天新地としての神の国の永遠の持続と矛盾するものではない。というのも神の国をボエチウス的な意味での今の充溢と理解することができるからである。放物線が接線に触れるように、来たりかつ去り行く運動の一種としての時間の流れの矢に、現在が後悔のような過去により支配されることも、また焦りや不安のように未来により支配されることもなく、時との和解としての今の充溢として捉えることができる。これは永続の一つの現世的な徴であると言える。最も現在的な感情は喜びであり、喜びがあるとき、そこには現在をそのまま肯定しており、そこに希望がわいている。いつも喜んでいる人には放物線が次々に降りてきている人であると言える。

 このような意味での永遠は旧約人の経験するところであった。「いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名を褒め詠い、朝ごとに、あなたのまことを宣べ伝えることは 十弦の琴に合わせ 琴の調べにあわせて。主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます」(Ps.92:1-5)。キリストにより永遠の生命を受けることのない者にはこの主への賛美と感謝において、今の充溢に生きていたと言える。旧約は永遠の生命のロゴス・理論をもたなかったが、実質的には永遠の徴は十分に経験されていたと言える。

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聖書の死生観(4)永遠をめぐって

聖書の死生観(4)永遠をめぐって

 聖書朗読 エゼキエル書37章1-14節、ヨハネ黙示録21章1-8節 旧約聖書において永遠の生命の木から遠ざけるべく、楽園を追放されたためにか、旧約人は神に永遠の生命を要求することはなかった。今・ここにおいて働いていたまう神がリアルであり、この人生における最善の行為選択肢と民族としての祝福を求めた。それでも、人間の本性が「内なる人間」を抱える限り、神の聖霊を受容する力能を有する限り、ヨブや詩人(16編)とともに預言者たちがインスピレーションを受ける時には永遠の生命を求め、賛美する。神の厳格さが支配的であるが、キリストの預言、証としての旧約人が描かれている。人類は一つの歴史を生きている。録音では永遠と感情の文法など自由に話しています。

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聖書の死生観(3)旧約から新約への展開(2)

聖書の死生観(3)旧約から新約への展開(2)

 聖書の死生観(1)で提示したテクストの1.2「旧約から新約への飛躍」から3「神が生死を支配する—今・ここにおいて働く旧約の神」さらに4「何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかしか見られないのか」まで自由に論じました。94頁に「永遠の生命を待望するということが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されていない」と書いたが、その具体的な箇所について質問がありました。ヨブ記19章25節に「わたしは知っている わたしを贖う方はいきておられ ついに塵の上に立たれるであろう。この皮膚がそこなわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう」とあり、これは身体を贖う神が塵の上にたたれ、その神を仰ぎ見る日が来るという希望を表していると理解します。Scofield Study Systemの当該箇所注にはこうあります。「19:26この箇所は旧約聖書における生ける贖い主の信仰の最も崇高な諸表現の一つを含んでいる:地上へのご自身の人格的な顕われ、ご自身の故の祝福された者の復活における神的なものの人格的参与、そして義人による神の確かなヴィジョンがそれである」。なお、詩篇16:8-11にはこうあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、生命の道をおしえてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます」。この箇所で詩人はインスピレーションを受け、魂の踊るような喜びを表現しています。それは永遠の生命における神の御顔を仰ぐ生活を表しています。イザヤ書65章17節に「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。はじめからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にものぼることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ」と語られています。これは永遠の生命への希望の表現と理解します。

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聖書の死生観(2)旧約から新約への歴史の展開

2023年10月8日

聖書の死生観(2)旧約から新約への歴史の展開

詩篇139編

 主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計(はか)らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる(Ps.139:1-10)。

 先週「聖書の死生観」原稿全体をアップしていますが、その「1.2 旧約から新約への飛躍」をめぐって自由に語っています。

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聖書の死生観(1)

 はじめに 2023年度春から夏までは毎週日曜対話形式にて山上の説教を学びました。対話形式でしたので、録音を控えました。できれば近日中にマタイ福音書5-7章の連続講義を書斎における録音としてお届けします。秋も対話形式を続けますが、基礎になる資料として、「聖書の死生観 ―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ― 千葉  惠」(『死生学年報』2022、東洋英和女学院大学死生学研究所編 pp.83-102)https://toyoeiwa.repo.nii.ac.jp/records/1726を用いつつ、自由に対話を続けます。ここにこの論文全体とともに本日の録音をお届けします。

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聖書の死生観 ―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ― 千葉  惠

「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りた まう、主の御名は褒むべきかな」(Job. 1:20)

「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イ エスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を 着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せる と、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すの か。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」」(Luk. 24: 2–6)。

1. 死生観と神観念

1.1. 生と死の動的な関わりの探求

  2021 年夏、疫病の蔓延で医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人 生崩壊の兆しさえこの国に広がった。人類が生存する限り問われる死が新た に問われた。死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事である が、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。そのなかで対立 する二つの立場を突き詰めると、一方で一切を正確に知り公平な審判を遂行 する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論となり、他方、個々 人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論となる。双方 とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてひとは 知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見え る。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後、神の前に立ち何らか の審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択すると 84 いう生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めな い限り、事実上、無神論に吸収される。

 無神論に基づく死生観は、ここで展開する有神論の論述の否定として理解 される。永遠の生命など存在せず、死後、肉体は自然とその生態系に還元さ れていくという見解である。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子 は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうし て死について知っているだろうか」と応答した(『論語』先進 11-11)。孔子 の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというもの であり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって 知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。 双方を分断したうえで、生の側から死を推し量ることがある。ひとは自ら の過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切 の悪しきことの消滅であり、死後は、神ありなしに拘わらず、生のもつ過酷 さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでない かもしれない。これに対し、双方を包括的に捉えるとは、生と死は何らか連 続的であり、死が一刻一刻迫っているという事実こそ生に意味を与え、その 生の内実が死に飲み込まれない肯定的なものである限り、死はその生の延長 線上に肯定的なものとして開かれると捉える。その意味で死の何らかの理解 が生を構成しており、生の何らかの理解が死を取り込んでいる。

  生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断的な思考を免れ ることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求め る。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれて いるという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素 でありうる。生死を支配する神は人類の歴史においてそのような機能を担う ものとして看做されてきたのであり、信じること、あるいは懐疑においてで あれ有神論を真剣に考慮することが生死を真剣に受け止めることを可能にさ せる。突き詰めれば、宗教において生きて働く神を相手にするのでなけれ ば、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合 的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への 信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験 のフィードバック(送り返し)を介して、全体としての自己理解を形成深化 させることである。死を支配する者があるという信なしに、死は不可知の闇 聖書の死生観 85 に留まる。

1.2. 聖書の死生観―旧約から新約への飛躍

 本稿において聖書が伝える死生観を紹介、吟味する。コンコルダンス(字 句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれ ぞれ約数百回見出すことができる(木田/和田 1997)1) 。二千頁の一つの書 物において均せば、二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていること になる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方 で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、他方で「ひとの生涯は草のよ う、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを 知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及は、アダムの末の誰もが 語るであろう一般的な理解である(Prov. 11:19, Lev. 10:9, Ps. 103:15, Job. 14:1)。

 同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うした が、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民 族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先 祖の列に加えられた」(Gen. 25:8, 15:15)。エジプトのファラオの娘の子と して育てられたモーセやその後継者ヨシュア、そして長老たちの死も生の成 就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut. 34:1–8, Josh. 24:29– 31)。旧約において「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki. 2:10)という 表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は 40 か所 以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(木田/和田 1997, 745)。 この「眠りについた」という表現はエデンの園における「生命の木」に暗 示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚 醒の可能性を示唆していると言うことができる。この表現は新約における義 人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測され る。もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれ、たとえ生物として土に 返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられ ることになる(Mat. 27:52, 1Cor. 15:6, 18, 20, 51)。

 The Book と呼ばれる人類の歴史で最も読まれているこの書物は、一つの 出来事を契機に二つの異なる文書が連続的な歴史の展開として編集されてい る。イエス・キリストの復活、即ち死者たちのなかからの甦りを契機にし 86

て、旧約聖書と新約聖書の死生観は断絶と呼べるほどの飛躍を遂げている。 新約において「永遠の生命」と呼ばれるものの在り処が、歴史のなかで全 人類に向けて神により知らしめられたと報告されている(John. 3:18, Rom. 5:21)。新約との著しい対比として、旧約において来世についての思弁や 幻、永遠の生命の獲得とその希求の記録はほとんど見られない。その理由を 探りつつ、人間の永生の可能性を基礎づける(神学的には御子の贖いの十全 性故に)「ただ一度」(Rom. 6:10)限り生起したと報告される死者の復活、 甦りの事件が両文書の連続性と飛躍を道理あるものと理解させる、そのよう な異なる記述を許容する同一の神についての理解を深めたい。 新旧約を貫く神の特徴づけは明確であり、唯一の神ヤハウェは宇宙万物の 創造者として時空の外にあり、永遠の現在において過去も未来も現在のこと として了解している全知にして全能なる宇宙の栄光である(Gen. 1:1–2:4, Ps. 90:4, 91:1, 139:1–24, Rom. 1:19–20)。

 双方の相違としては、神は自ら の愛の相手として人間を創造したが、楽園追放後の人間との関わりの仕方、 即ち媒介が御子の出来事を契機にして判別される。一方、旧約においては 天、主の使い、預言者そして洪水や疫病等自然事象を介してその都度の今・ ここにおいて、具体的な状況にある人々に働きかけていることが記録されて いる2) 。預言者たちは人格的な存在者として神の言葉を取り継ぐ。定型表現 「万軍の神(主)は言う」は預言者たちにより 150 回以上用いられ、神の認 識や判断が取り継がれている。神の審判の預言は至るところに見いだされる (eg. Hosea 7:13–8:14, Isa. 30:12–14, Jer. 5:14–17)。ユダの王ゼデキアは じめ高官たちは紀元前 6 世紀に 70 年間にわたりバビロンに拘束された(Jer. 25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたし[神]はエ ルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住 む者はいなくなる」(Jer. 9:6–10)。 他方、新約において、神は根源的な仕方で神の子であり同時に受肉により 真の人の子である和解の執り成し手イエス・キリスト、ないし聖霊を介して 関わっていると報告されている。ナザレのイエスが自ら天父の子であるとい う「神の子の信」、信の「従順」を貫きその都度の今・ここの働きにおいて 完全に神の義と神の意志、計画を実現したことにより、神により御子とし て嘉みされ甦りを与えられたと報告されている(Gal. 2:20, Phil. 2:8, Rom. 4:25)。そのことにより、イエス・キリストは父なる神の信義の啓示および

聖書の死生観 87

神の人間認識、判断の普遍的な仕方での啓示の媒介者とされる。そしてこれ は父と子の協働の知らしめであるが故に、これは最も明白な神の自己顕現で ある(John. 16:32, Rom. 3:21–26, 2Cor. 5:19)。

  かくして、この自己顕現に基づき旧約における自然事象また族長、預言者 を介した神の諸顕現を理解することは道理あるものとなる。根源的かつ普遍 的に知られる父と子の協働作業のほうが具体的な状況、とりわけ窮状にある 個々人に受け止められた限りにおいて記述される神よりも純化された仕方で 神の特徴およびその働きが理解されうるからである。さらに、御子の派遣は 然るべき時に決定的な仕方でなされたとする限り、その充足の時に至る準備 期間として他の一切の顕現は理解されるからである。永遠の生命の知らしめ の準備として旧約が位置づけられる。

  両文書の報告において、同一の神が自らの隠れと顕現において歴史を一 直線に展開させていると理解される。パウロは 433 節からなる「ローマ書」 において、旧約に先駆的形態のある信に基づく義・正義が、モーセを介した 旧約の中心的啓示である業に基づく義・正義よりも神自身にとってより根源 的であることを論証する。彼はそこでキリストにおいて成就された福音(信 義論、予定論)を旧約から 60 節(箇所)以上すべて肯定的に引用すること により裏付けている(千葉 2018, 456, 155.n.3)3) 。救世主の復活の知らしめ こそがそれまでの旧約人の知らされざるなかでの苦闘と待望を特徴づける。 彼らは一回限りの歴史の進行のなかで政治的メシヤの出現であれ他の何かで あれ救いを暗中模索していたが、自ら知らずにも、あるいはわずかに自覚的 に復活による永遠の生命を求めていたことが明らかになる。

2. アダム―その組成と堕罪

2:1 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素

 人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことにより ひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵で ひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息(pnoē zōēs)を吹きこんだ。 そして人間は生きる魂となった」(Gen, 2:7)。G. フォン・ラートは言う。「用 いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまった く無媒介的な吹きこみによって『生きもの(Lebewesen)』になった。この 88

七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定 義を含んでいる」(v. Rad 1978, I,163)4) 。 人間が地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されて いることは、最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。その ことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道 を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(千葉 2018, 第二章一節四)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成 要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象 とする人間と聖書の伝統のなかで新約の使徒パウロがナザレのイエスの生涯 に基づき解明しようとする人間は、少なくとも同一の質料的な基礎を持つと いうことである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは 生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor. 15:45) と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後 のアダムとしてのキリストをさらなる新たな永遠の生命の原理となる「霊」 として提示している。 人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が 生命原理として最も基礎的なものであると位置づけられる。そのうえに 「心(kardia)」に内属する感情や思考、信念等の心的事象が生起し、さらに は「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する(Rom. 7:24, 2Cor. 4:16)。パウロにおいては「人間」は、「最初の人間」とその生 物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一 の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ。第一の人 間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった。第二の 人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生 命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor. 15:44–48)。 この事態は神話的には、鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の 魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、 現代科学がまだ解明できていないことがらを、あるいは異なる仕方で表現し ていることがらを、パウロがすでに把握している可能性を否定しない。パウ ロは「霊(pneuma)」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素とし て提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約は帰結主義をとってお り、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認さ 聖書の死生観 89 れるとき、その証があると主張される(Luk. 7:44, Gal. 5:22)。信が聖霊を 受動する心魂の根源的部位において生起する限り、つまり正しい信である限 り、真偽の知識に関わる理性の逸脱である狂信からも、心魂の人格的徳(善 悪)に関わる身体的なパトス(受動的情念)の過剰(例、恐怖)である迷信 からも自由とされ、賢者となり聖者となるからである(千葉 2018, 序文 32, 第二章三節, 四節)。 アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるの か。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実 質的には神的・霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注 がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味 してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであ り、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受けとる部位、「内 なる人間」として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって 造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるもの、即ち 通常の生命活動のただなかで聖霊を受け取るこのとのできる部位が力能にお いて心魂の根底に内在していると理解すべきである。それが神的息吹の注ぎ により「生きる魂」となった人間の実質であると考えられる。 実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け 取らない。というのも彼は愚かでありそして知ることができないからであ る、というのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟 味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor. 2:14)。「内なる人 間」が実働することにより霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握 した者であり、人間は自らが、肉の魂的な生命に還元されないことを知って いる5) 。

2:2. 堕罪とその影響―「善悪を知る木」と「生命の木」

 これらは誰もが持つ心魂の態勢、働きであると聖書は主張する。一方で、 生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的な心魂のうえに 注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen. 1:31)。自然的なも のは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自 然であり本来的である。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人 類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地 90

を従わせよ」(Gen. 1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然の ままに祝福されたものであったであろう。楽園神話においてはひとは神の目 前で生活しているがゆえに、霊の媒介の働きは必要とされていない。 神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいで させた。最初のひとは園の木の実を自由に食することが許されていたが、「善 悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と警告 されていた(Gen. 2:17)。彼らは「神の如くになる」(3:4)という蛇の誘惑 に負けて、この木の実を食した。すると目が開け裸であることを恥じた。ル ターは「罪とはおのれの内側に曲がってしまった心である」と言う。彼らは 神から自律した行為主体として善悪を判断して生きる道を選んだ。ひとは 「啓蒙」と呼ぶでもあろうが、神の視点から言えば、従順の中での善悪の識 別を介しての道徳的鍛錬は嘉みされたであろうが、神から離れての啓蒙は背 きであり罪であった。神は「塵にすぎないお前は塵に帰る」という仕方で、 自然的な生物的死を生命維持の労役とともに罰として与えた(3:19)。 楽園追放の理由は、彼らが「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる 者」となる恐れがあったからである(3:23)。ここでは時満ちて御子の派遣 を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、 永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。なぜ人類には初めか ら永生が明らかな仕方で与えられなかったかが説明されねばならない。 ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能を、その 創造において所有していた。少なくともそれらが然るべきときに神から与え られた際には、それらの実を食し消化するする力能を備えていた。エデンの 園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼ら は園を追放されたのであるから、それ以前も以後も彼らが食する力能を失っ たわけではない。とはいえ、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木 を食することが許されていたかもしれないが、最初の人間には許されなかっ た。 人類がその後もこの力能を所持していると看做すべきことは、一つの民族 の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の復活が生起し たことから確認される。堕罪後人類の歴史は自然的制約というこの与件のも とで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。生物 的死が単に自然事象であり神への背きの罰であるという認識の欠如こそ神へ 聖書の死生観 91 の背きを示しており、悔い改め立ち帰りがその都度求められている。それが 原罪の持つ波及範囲の最も確かな理解である6) 。

3. 神が生死を支配する―今・ここにおいて 働く旧約の神

 生物的死はこのように聖書において罪の罰であるという基礎理解のもと に、旧約における来世、永遠の生命への希求の記録の欠如についていかなる ものとして理解しうるか考察したい。旧約人はアブラハムの信とモーセ律法 により鍛えられることとなる。彼らの歴史における神の意志の明確な知らし めは、信仰に基づき義とされたアブラハムへの子孫の繁栄の約束と信仰に基 づきエジプト脱出を導いたモーセへの十戒に見られる。この恩恵に絶えず立 ち返ることは彼らのあらゆる神との関わりの規準、礎石となった。旧約の義 人の系譜が信仰に基づくものであったことは「ヘブライ書」で旧約人 14 人 の言及のもとに記録されている(11:1–40)。

  モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレ ブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神 があってはならない。……わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わ たしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛 し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。……汝の 神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は 罰せずにはおかない」(Exod. 20:4–7)。

  生命と死は、神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし[モーセ]は今 日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。……汝の神、主を愛し、その道に 従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増え る。……もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し 仕えるなら、……汝らは必ず滅びる」(Deut. 30:15–18)。モーセは偶像崇 拝に陥った民を一日で三千人処刑して、神の言葉を伝達した。「わたし[神] に罪を犯した者は誰でもわたしの書から消し去る。……わたしの裁きの日に、 わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」(32:28, 33–34)。

  神が唯一であり他のいかなる神をも拝するなという唯一神の顕現とその神 の名をみだりに唱えるなという戒めは、イスラエル民族の思考と行動を支配 92

した。神になずむことへの禁止は、神への畏れのなかで死後への勝手な思弁 や要求をブロックする。さらに口寄せや霊媒を通じての死者との交流の禁止 は、神から知らされていない事柄に対する思弁や希求の禁欲を強いている (Deut. 18:11, Lev. 19:31, 20:6, 20:27, 2Ki. 21:6, 23:24, 2Chr. 33:6, Isa. 8:19, 19:4)。

  彼らの思考の枠は、アブラハムの約束の成就への信とモーセ十戒の遵守に よる祝福と懲罰のもとに定められた。それはちょうど厳格な親の訓育のもと 真面目で規範意識の高い子供が育つことと類比的である。パウロによれば、 厳格な律法主義者には「誇り」が残り信に至らない可能性が指摘されている (Rom. 3:27)。それでも、どのような養育環境にあっても人間が人間である 限り共通する心魂の働きである感情や憧れ、思考そして信念を抱いている、 あるいは何らかの心魂の法則性のもとに心的事象は生起すると想定すること は道理がある。

 ここで旧約における死生観をめぐって彼らの特徴的な理解を幾つか挙げ る。(a)生と死一切が神の支配のもとにある。預言者エゼキエルはバビロン 捕囚のただなかで神の言葉を取り継ぐ、「すべての生命はわたし[神]のも のである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した 者、その者は死ぬ」(Ezek. 18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァル の侵攻を預言し神の言葉を取り継ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道 と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer. 21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出 来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl. 3:1–2)。

 (b)神は生物的死や洪水、隕石の落下、そして疫病など自然的事象を介 して自らの意志、とりわけ懲罰を知らしめる。(c)アブラハムは彼の子孫の 繁栄に対する神の約束を信じ、それにより神と正しい関係に入った。旧約に おいても信仰義認の系譜がその民族に対する神の祝福、肯定的な交わりの源 泉である。(d)神を信じ畏れモーセ律法を遵守する者には祝福が与えられ る。永遠の生命希求の代替として、指導者たちに見られる長寿とその祝福は 定型句「眠りについた」により表現されている。(e)祝福と懲罰の前提とし て、ひとは誰もが自らの責任ある自由のもとに生きており、神に背くことも 立ち帰ることもできる。ただし、楽園追放の与件のもとで立ち帰りが常に必

聖書の死生観 93

須事項となる。かくして、ひとは追放後さらに背くか、それとも主を畏れ立 ち帰り神と正しい関係を結ぶに至るかが問われている。

  ここでは(b)自然事象が神の意志を媒介するその擬人化、自然化につい て考察する。例えば、人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引 き起こしたと報告されている。「神はひとを創造したことを後悔し、心を痛 めた」(Gen. 6:6)。神はノアの家族が生き延びるように箱舟の建造を命じる が、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼 らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」 (6:13)。

 またソドムとゴモラの町が、その悪に対する神の怒りのもと硫黄の火によ り滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究に より、紀元前 1650 年頃死海近辺のヨルダン川東岸における隕石の落下であ ることが判明しつつある。ソドムについて神は三人の使いを介してアブラハ ムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大 きい」(Gen. 18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼす のかとソドムの都のために執り成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神 から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しか し、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。 ダビデの時代にイスラエルにおいて、北の端であるダンから南の端であ るベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている (2Sam. 24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとした が、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、『も う十分だ、その手を下ろせ』」(24:16)。

  この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化され ており、意見を変え得るものとして宇宙の栄光を捨てた人間的な神として描 かれている。しかし、新約の視点から言えば、これらは真の媒介者キリスト を知らない者たちへの神の憐みの表現として理解される。宇宙の栄光である 神は自らが理解されるべく、旧約人の認知的制約のもとで自然事象を介して 人間と関わる。このように旧約においては神についての普遍的な理論化は遂 行されることはなく、個々の神とひとの今・ここの人間的な交わりが記録さ れている。かくして、旧約の神は、神とひととのあいだを分けない仕方でそ の都度の今・ここにおいて関わる「エルゴン(働き)の神」と特徴づけられ 94

よう。

4. 何故永遠の生命への追求は旧約人には わずかにしか見られないのか

  旧約と新約の死生観の論述内容の相違は興味深い。御子の受肉、受難と復 活を介して啓示された福音が相互の連続性と展開とともに、新約から見る限 り旧約における欠落そしてそれ故に待望が明らかになる。ここで、新約の視 点から明らかになる旧約における不在ないし僅少の例を挙げる。(1)永遠 の生命の獲得の記録はもとよりその希求。(2)神と敵とのあいだの執り成 しの働きとその祈り(とりわけ「詩篇」における)。(3)聖霊による肉の弱 さにある個々人への内在を介した呻きを伴う神の肯定的な意志の執り成し。 (4)指導者や預言者たちの有徳者であることの記録、そして立派な有徳な 人間になることへの奨励、ただし神による義人の認証を除く。(5)聖霊に よる一つの身体としての集会、教会の形成。(6)異邦人の救い。これらの 記述が皆無ないし僅かにしか見られない7) 。

 ここでは(1)について考察したい。詩人は神への讃美の機会を失わな いためにこの世の生存を嘆願する。「あなたは、わたしの生命を死に渡すこ となく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」 (Ps. 16:10)。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わ たしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝を ささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps. 30:10)。「あなたは 死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃え るでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語 られたりするでしょうか」(Ps. 88:11)。生きている限りにおいて、一切を 支配し導く神に讃美を捧げることができ、そのなかで祝福を頂くことができ る。

 端的に言って、旧約人は直接的な仕方での永遠の生命を待望するというこ とが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されてはいな い。その待望は、民族の集団心理として、楽園追放以後、主の名前を「みだ りに唱えるな」、「貪るな」という戒めに包摂されるタブー・禁忌であり、避 けられたのであろうか。生命の木の実の実質は始めの人間の背きの故に言及

聖書の死生観 95

することさえ許されなかったのであろうか。アダムが裸であることを恥じ、 また茂みに隠れたように、旧約人は神への怖れのなかで自らの心情を吐露し たり、最も重要な願望をさえ安易に要求できなかったのであろうか。復活は あまりに信じがたきことであったのであろうか(Mat. 22:23)。永遠の生命 への希求の記録の欠落は、これらの複合的事情によるものであろう。

 フォン・ラートは幾つかの箇所を論拠に挙げつつ、旧約人は来世を望む ことがなく彼が「此岸性」と呼ぶ現実世界への集中を彼らの特徴としてあ げる(Ps. 90:4–11, 34:14ff, 88:6–11, Job. 9:2–5, 29–31, Deut. 3:15ff, Isa. 38:11ff)。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が 簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることが できるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵み に依存しているということの方が重要だったのです。……この待期期間、つ まり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体 に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないかというふうに説明 できるのではないでしょうか。実際、旧約の定めは、神の此岸に対する意志 を含んでいます。……すべての不安が解消されるであろうと人々を誘惑する 彼岸によって相対化されることはなく、むしろ、大地と人間は、神の側か ら、「出口なし」と示されて、それを真摯に受け止めたのです。……あらゆ る彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき です」8) 。

  しかしながら、フォン・ラートによる旧約人のこの理解は正しいのだろう か。これまでの論述に基づくとき、少なくとも、「此岸性」と「彼岸性」、ひ との世界と神の世界の分断を含意するこの表現は、生と死を総合的に捉える ことを不可能にしており、貧弱な死生観しか持ちえず、旧約人を矮小化して はいないであろうか。神から「出口なし」を示された人間はどこに希望を見 出すことができるであろうか。より適切な表現を求めるべきである。

  旧約においては神が人間と関わる媒体は洪水や疫病そして死等自然事象を 介してであり、そこではこの世界の事象を媒介にして具体的に関わる今・こ このエルゴン(働き)の神の報告で満ちているがゆえに、何か彼岸即ち神の 前の事柄が考慮されずに、此岸即ちこの自然的世界だけが考慮される、その ような印象を与えたのだと思われる。しかし、エルゴンの神はひとの現実世 界から分けられてはいないだけのことであり、その同じ神がどこまでも宇宙 96

の栄光の神である。この神は当然死を支配している以上、死後を考慮してい るが、そのことは新約において明確に知らしめられた。神は旧約人にはアブ ラハムの信仰義認とモーセの業の律法に基づく義認の枠のなかで、自らが人 間的に理解されることを許容しつつ、恩恵を思い起させることにより罪とそ の値である死の乗り越えを迫っていた。罪と死の乗り越えが彼らの課題でな かったはずはない。あたかも旧約人が此岸に閉じ込められたかに見えるの は、神が自ら譲歩して彼らの理解に応じて今・ここにおいて具体的に人間的 な様相において関わったからである。

5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神

 新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の 前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにあ る人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものと して論じることができる(千葉 2018, 第三章)。ただし、イエス・キリスト を介しての、神のひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの 具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばな らない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロ ゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1:1)。

  旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの 働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰 納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切 の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ 故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出する ことができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りに おいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこ で報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方 で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。

  二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著し い論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。そ れは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ 以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたとい

聖書の死生観 97

う理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根 源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだか らである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進 み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なる であろうことと類比的である。

 旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介 して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として 描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生 存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されるこ とを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的 な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる 内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての 神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロ ゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。

 預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立 ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かく して、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことが できる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約 とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心の up and down のなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、 敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています 神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45:15, Deut. 29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に 火と燃え続けるのですか」(Ps. 89:47–49)。新約においては、この訴えはな されえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到 来したからである(Job. 9:33, 33:23, Isa. 43:13, 47:4, 49:7, 54:5)。

  しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ 追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については、 千葉 2018, 456–462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神 の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、そ の事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 98

38:1–3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄き つつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去ら れ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6:3–7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たさ れつつ待望を続けた民族であった。

6. 結論

 エルゴンの神、即ちひととその都度の今・ここにおいて関わる神が前史と して描かれなかったなら、父と御子の協働行為としての福音は正しく福音と して位置づけられなかったことであろう。あの準備期間においてこそ、同一 の神の御子の派遣の必然性と、さらには罪と死の克服としての受肉、宣教、 受難、復活の主は正しく理解されるにいたる。かくして、他の民族の歴史か らはナザレのイエスは誕生しなかったという理解は道理がある。同様に生と 死も旧約のあの禁欲的な準備なしに、総合的な理解はかなわなかったであろ う。

  もしユダヤ人の歴史のなかでの受肉はもとより、何の歴史的交流なしに UFO のようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の 創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらな い神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船 を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み) の両立を知ることはなかったであろう。即ち、信に基づく正義を介して自ら の罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永 遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。

 「見よ、わたし[パウロ]は汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつ くということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間 に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者た ちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれら もまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが 朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばなら ないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不 死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事にな 聖書の死生観 99 るであろう。『死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにあ る、死よ、汝の棘はいずこにある』[Isa. 25:8, Hos. 13:14]。罪が死の棘で あり、罪の力能が[罪の]律法である[Rom. 7:23]。われらの主イエス・ キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する 兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主 にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固た れ」(1Cor. 15:51–58)。

  ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(Rom. 3:19– 20, 3:27))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神 への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのな かで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」(3:27))が御子の受肉と 信の従順の生涯により福音として啓示されている。罪とその値である死が克 服された。

 新約の視点から「へブライ書」記者は旧約の人々をこう特徴づけている。 「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、 約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさった ものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがな いためである」(Heb. 11:39–40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生 が何であったかが初めて明確にされ、完結されるものであった。

  旧約人の宿命として、彼らは神と自らの交わりのエルゴンの積み重ねをア ブラハムの信とモーセ律法のもとに続けた。そこには祝福と懲罰の経験が あった。自らの心魂を離れて神の審判に耐えうる力はなかった。新約人は自 らの外に、イエス・キリストのうちに自らの救いの力を見出した。旧約人は 明確な知識をもたずにも神の義と愛という一本の道を忍耐のもとに歩み続け たそのただなかに、キリストを待望するエネルギーが蓄積されていったので あった。 100

注 1) 新約からの引用は私訳を用い、旧約からの引用は基本的に日本聖書協会『新共同 訳』(1987)を用いる。

2)「天」は旧新約全体で約 650 回使用のうち「天から」は旧新約それぞれ約 60 回現 出、「御使い」は旧約で約 50 回、「天使」は新約で約 200 回現出。前掲辞典。

3) 本稿は多くの箇所において千葉(2018)の論述を前提にしており、関連ないし詳 述箇所は本文内で示す。

4) この文章で旧約の記者の一人であり神を表現する際、固有名「ヤハウェ」を用いる 「ヤハヴィスト」においては具体的な記述が多く定義を企てることはないとされて いる。これはこの文書一般の傾向であり、理論的な展開よりも神とひとの具体的な 関わりが記録されている。

5) 生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について、即ち、聖書が展開する心身論に ついてのより詳しい議論は、千葉 2018, 第四章「パウロの心身論」を参照された い。

6) カトリックとプロテスタントにおいて、最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論 争がある(千葉 2018, 第八章、九章第二節一)。カトリック教会は 4 世紀ヒエロニ ムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされた Vulgata 版を 1970 年の Nova Vulgata において、アダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という 考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している。 罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達される という類の議論はなされえない(千葉 2018, 上巻 32, 705–710)。遺伝罪という理 解は既に克服されたとして、人類はすべて神の前に罪を犯したと理解されている。 アダム以来、ひとびとはずっとアダムを「模倣」(ペラギウス)してきたと理解さ れる(千葉 2018, 第六章 147)。あるいは、「模倣」という言い方が躓きを与える とすれば、神の前に一度は嘉みされなかった者として振る舞ってきたことになる。 「すべての者は罪を犯した」(Rom. 3:23, 5:12)。

7) 旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような 共同体や教会の観念をもたなかった。C. H. マッキントッシュは言う、「個々の霊 の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。 ……旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M. 1927, 16, 18)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使 徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人 の子たちには知らされてはいなかった」(Eph. 3:4)。

8) フォン・ラートは J. ウェルハウゼンの問いを紹介する。「宗教的な動機をもった誠 聖書の死生観 101 実な人たちが、それほど長く、死後の永生への希望なしにありえたのはなぜか」。 ラートはこの問いが事実に即したものではないとし、「なぜなら、旧約聖書には、 死後の生に対する要求はないから」と理由を提示する。しかし、これは人間本性か らして、また生死の本性に鑑みて、旧約人に対する過度の要求、また過度の特殊民 族性への要求が含まれている(フォン・ラート 2021, 67–68)。

参考文献 木田献一/和田幹男監修 1997:『新共同訳聖書コンコルダンス:聖書語句辞典』キリ スト新聞社。 千葉 惠 2018:『信の哲学』上巻、北海道大学出版会。 フォン・ラート 2021:「旧約聖書における生と死についての信仰証言」『ナチ時代に 旧約聖書を読む:フォン・ラート講演集』荒井章三(編訳)、教文館。 C.H.M(Mackintosh, C. H.)1927:『創世記講義』黒崎幸吉(訳)、一粒社。 Von Rad, G. 1978: Theologie des Alten Testaments 7 Auflage, München: Kaiser Verlag. 102

Life and Death in the Bible: From Accumulations of Expectant Waiting in Preparation in the Old Testament to its Fulfillment in the New Testament  CHIBA Kei

    There is a salient difference in the treatment of life and death in the Old and New Testaments which are edited as a consecutive Book. While there are few appearances of passages in which people yearned for eternal life in the former, plenty such passages are found in the latter. Jesus Christ is truly a son of God and truly a man as the Mediator between God and man, whose resurrection is supposed to have taken place only once in human history. The event of his resurrection led to a leap in understanding life and death among people who received the Gospel which the Old Testament had prophesied. Gerhard von Rad explained the attitude of the Israelites in the Old Testament as ‘this worldliness.’ By opposing this characterization which inevitably severs life from death, and things before God from things before man, I explain why ‘there is no demand of life after death’(Rad) in the Old Testament. God associated with the people in the Old Testament through natural phenomena such as floods and meteorites, by allowing Himself to be described and personified with emotions such as regret and anger. This is an expression of God’s mercy to be understood by those who do not know the Mediator. God is at work here and now through natural phenomena in the Old Testament and through His only son in the New Testament. In the latter, we can understand God not only by His unsevered acts between Him and man through the Mediator here and now, but also by the lucid universal account that shows God’s will and cognition revealed in His son without appealing to Holy Spirit’s work of intercession. Therefore, we can call the God of the Old Testament as ‘God of ergon (being at work here and now)’ and Him of the New Testament as ‘God of both ergon and logos.’

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「量り」の反射性(1)

春の聖書講義 4月30日 (原稿を用意しましたが、講義は自由に話しています。先週休講であったため、二週分の話をしたうえで対話を促します。対話は録音されていません。量りの反射性の話は複数回続きます)。

「量り」の反射性(1)

—道徳的反射性の主張は自然や歴史をも含めどこまで普遍的な法則か―

 「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれ、汝らが量るその量りにおいて汝らにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。或いはどうしてきょうだいに向かって「君の目から塵を取らせてくれ」と言うのか、見よ、自分の目に梁があるではないか。偽善者、まず自分の目から梁を取り除け、そのとき君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになるであろう。神聖なものを犬たちにやるな、汝らの真珠を豚どもに投げてやるな、豚たちはそれらを脚で踏みつけ、向き直って汝らに突進してくることのないように」(マタイ7:1-6)。

 「汝らの天の父が憐み深くあるように、憐み深くあれ。汝らはひとを裁くな、そうすれば裁かれないであろう。ひとを咎めるな、そうすれば咎められないであろう。赦してやれ、そうすれば赦されるであろう。与えよ、そうすれば汝らにも与えられるであろう。人々は [穀物を]押込み、揺すり込み、溢れている良い量り(metron kalon)を汝らの懐に入れてくれることだろう。というのも汝らが量るその量りで汝らに量り返されるからである。イエスは彼らに譬えを語った。盲人が盲人を導くことはできない。双方とも穴に落ちるのではないか。弟子は師に優らず。しかし皆訓練することにより自分の師匠と同じようにはなるであろう。しかし何故君は君のきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。どうして君は自ら自分の目にある梁を見ることをせず、君のきょうだいに「きょうだい、わたしに君の眼にある塵を取らせてくれ」と語ることができるのか。偽善者、まず君の眼から梁を取り除け、そのとき君は君のきょうだいの目にある塵を取り出すようすっかり見えるようになるであろう

」(Luk.6:36-38)。

1反射性の諸次元

 1.2二つのテクストの共通性と強調点の異なり

 ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、正しい者と不義な者を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(Mat25:31-33)。パウロは途上の人間が裁くことを「罪に定めること」「有罪判決すること」「咎めること」と訳されうる語句(katakrinein)を用いる。それは自らに反射的に返ってくるものであるとして言う。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めている(katakrineis)からである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ業の律法のもとにあり、赦しではなく罪に定めあっている。

 罪に定めることは旧約におけるモーセの業の律法の仕事である。「裁くな」においてイエスはモーセの業の律法の適用の否定にまで至っている。イエスは旧約の伝統のただなかで神の国の福音を持ち運んだ。「聖書」は神がそこにおいてひとと共にある「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集された。それは神の意志の知らしめが「モーセの律法」「業の律法」から「キリストの律法」「信の律法」へと展開されたことに呼応する (Jer.31:31,Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。

 日常生活においては目の梁に対する呪いとしての断罪もあれば、目の塵と言える軽微な生活習慣に至るまでひとは誰かに否定的な態度を取ることがある。「裁き」は様々なレヴェルで遂行されている。このグラデーションとでも言うべき審判の濃度の変異はイエスが前提にしている「量り」と呼ばれる道徳的判断規準の適用範囲の普遍性に見られる。この普遍性はひとは誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する時に用いる規準(道徳的判断の視点)のそれである。それはマタイとルカで同様の文言において報告されている。マタイでは「汝らが量るその量りにおいて汝らにも量り与えられる」と、ルカでは理由文において「というのも汝らが量るその量りで汝らに量り返されるからである」と報告されている。

 両福音書において同じ反射性が前提にされているが、マタイでは裁きと異なる識別することの重要性が説かれ、ルカでは赦しや贈与等肯定的な行為の反射の豊かさが強調されている。そのうえでひとは誰もが自らの認識規準、判断基準のもとでひとや出来事を判断せざるをえないが、それは神の意志や認識にできる限り対応するように遂行せよと命じられる。「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」(Mat.5:48)。そのとき、ひとの目から塵を取ってあげることができ、歴史に肯定的なものを遺すことになる。

1.2 自然法則上の反射

 反射性を一般的な文脈にどれだけ拡張できるかは興味深い問である。反射性は様々な次元で語られうる。ひとつには自然的な次元、また自己完結的な次元、さらには対人関係の次元、そして歴史上時間を経たうえでの反射性を経験する次元等が想定される。ひとは色眼鏡をかけると、網膜に映る映像は脳における処理を介してその色を反映したものとして現れ見て取られる。これは自然的な反射性の一例である。

1.3 行為における自己完結的な反射

 ひとは数多くの選択肢のなかから一つをその都度最善と判断し選択するが、その行為を選択すること自体が一つの反射性の報いを受け取っている。「悪行の報いは悪業そのものである」と言われる文脈である。善業もそうであり、誰も見ていないところで誰かを助けたり、何らか良き行為をするとき、そうしなかった自分から自らにくだす識別や裁きとは異なる、良い自己認識を獲得する。これは自己完結的な次元における反射性である。

1.4 対人関係の反射と負のスパイラルを克服する応答

 さらに、ひとの善意を信じて接する人は善意で返されることの多いことも、悪意をもって接するひとが悪意をもって返されることと同様に、しばしば経験することであろう。信用できないと認識しているひとの行動の受け止めはそこに裏があるのではないかと思え、ますます信用できなくなり負のスパイラルに陥ることも起きよう。喧嘩や戦争の報復合戦、応酬は対人間の反射性の否定的な好事例である。とはいえ、視点を換えて接することにより「見直した」ということが起こることも事実であり、改善していることを発見したり誤解していたことに気づくことも日常の経験である。パウロは悪意をもって向かってくる者に善意をもって返せと励ます。それによってしか負のスパイラルを逃れることはできないからである。「汝らを迫害する者たちを祝福せよ、祝福せよそして呪うな。喜ぶ者たちと共に喜び、泣く者たちと共に泣くこと。互いに思いを同じくし、高ぶった思いを抱かず、低き者たちと共にありつつ。汝ら自らの側で賢き者となるな。誰にも悪に対して悪を報いることなく、あらゆるひとびとの前で善き事柄に配慮しつつ。可能なら、汝らの側からはあらゆるひとびとと平和を保ちつつ。愛する者たち、自ら復讐することなく、むしろ怒りに場所を与えよ。まさにこう書いてある、主は言われる「復讐はわれにある、われ報いるであろう」。むしろ、「もし汝の敵が飢えるなら、手ずから一片食べさせよ、渇くなら、彼に飲ませよ。なぜなら、こうすることによって汝は炭火を彼の頭上に積むであろうからである」。悪によって負かされるな、善によって悪に勝て」(Rom.12:14-21)。

1.5 時間経過を伴う歴史上の反射

 時間の経過を経ての反射性も経験することがある。種蒔きの譬えで神の言葉が「良い土地」に蒔かれることもあるが、これに比せられる「美しくかつ良い心」は、「言葉を聞いてしっかり受け止め忍耐をもって実りをもたらす」能動的な行為において確認される。良い果実をもたらす者は自らが後に神の言葉が蒔かれた良い土地であったと認識する。反射性の法則がここで神の言葉の能動的な受容とその果実から語られているが、時系列においては自らが神の言葉が蒔かれた良い土地であると受け止め信じて励む者は良い果実を生み出す。ここで自ら量る量りは良い土地であることの信であり、その信のもとにある能動が「他の種は良い土地に落ち、成育して百倍の実を結んだ」(8:7)その結果をもたらし、結果にその信が反映されている。これは判断規準として肯定的な信を置いた場合のそれにより量られる果実である。

 ひとが「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ」(Rom.12:15)とき、そこで分かち合われる共感の応酬も反射性の肯定的な好事例である。当方の態度に応じて、何らかの反射的な受け取りがあるということは道徳的判断から始まり、一般的な認識にいたるまで適用される普遍的な法則であると言えよう。マルコはイエスの言葉をこう報告している。「汝らが量るその量りにおいて汝らに量り与えられるであろう。というのも、持っている者は自分に加えて与えられるであろうし、また持たない者は持っているものをも自分から取り上げられるであろうからである」(Mac.4:24-25)。前向きな規準により取り組む者はさらに成功し、後ろ向きな規準により消極的に取り組む者は失敗することになる。ただし、人間関係においては他者からの「受け取り」は一様ではないことは言うまでもないが、悪意に対し忍耐をもって善意により応答するとき、負のスパイラルの反射から解放される。反射性の法則は或る理解のもとにある自己とその理解により帰結において量られる自己とのあいだまたは自己と自然的な応答さらに神による応答とのあいだに限定するときより確かなものとして普遍性を主張できるであろう。

 このように「裁くな」という戒めにはより広い適用を持つ審判や計量の反射性とでも言うべき能動と受動の相即が前提になっている。自らあてがう認識や判断規準が自らを量る尺度になると言われる。キリストを尺度にする者から神に意図的に背くことを尺度にする確信犯のあいだで尺度・量りが推移する。イエスの認識、判断規準は山上の説教においてとりわけ先鋭化されて報告されている。

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ザアカイ体験

本年度4月から試みとして対話形式の日曜聖書講義に変更いたしました。丸くなって話し合っていますが、寮生の言葉が聞き取れないことがあります。ご容赦ください。原稿を用意しないことにしましたので、録音だけになります。

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契約における信の力と規則—組織管理と仕えること—

春休み聖書講義  2023年2月26日

契約における信の力と規則—組織管理と仕えること—

「愛は不作法をせず、おのれの利を求めず、いらだたず、悪を数えない」(1Cor.13:5)。

 「聖書」は「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集されている。それは神の意志が「モーセの律法」「業(わざ)の律法」から「キリストの律法」「信の律法」への知らしめにおいて展開されたことに対応する(Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。学寮にもモーセの「業の律法」に比せられる寮則がある。寮則は神の啓示ではなく、生命に与りやすい「信仰的清純の環境」(学寮設立趣意書)を備えるための、人間の責任ある自由のもと改訂可能な生活の指針である。入寮のさい相互の信頼のもとに契約を交わし、約束に信実であり正しい人であると信じ共同生活を遂行する。その信に基づく正しさが証明されるのは愛の果実を生むか否かであると受け止め、相互に愛するよう努める。愛とは支配からも被支配からも唯一自由な場で出来事となる我と汝の等しさである。友と友、寮生と寮長、妻と夫等この等しさのもとにある愛の感情実質は端的な喜びである。そこでは共同生活は楽しく豊かなものとなる。管理者の喜ばしい職務は、寮生各位に神の愛を注がれているという信を常に刷新しつつ、各位の健康を守り、学業を支援し立派に社会に送りだすことである。これが信→義→愛(「義の果実」)の一本道であり、学寮はその実験の場であり、この一本道を歩んできた先達たちの細い真っすぐな光の道を仰ぎ見る度に励まされる。

 寮則は経験に裏付けられた愛の具体化の目安、参考にすぎず、クラーク先生は札幌農学校一期生に「紳士たれBe gentleman!」とだけ語った。愛と信頼に生きる者は感謝と賛美のうちに、旧約の数百ある律法は信の律法のもとでの愛に変換され、業の律法を言挙げせずにすべての律法を満たす。「愛を媒介にして働いている信が力強く」、「愛は律法を充足する」(Gal.5:6,Rom.13:10)。寮則例えば「23時以降自由に食べてよい」は「食べた奴シバク」から「信の律法」のもとで「お腹をすかした人に食べてもらえて嬉しい」に変換される。

 学寮に赴任したさいに「寮生活が不適の場合には退寮することに同意します」という「誓約書」を見て、驚いた。擬人化される罪は「神はそう言ったのか」とエヴァを誘惑する蛇のように、文字としての律法を殊の外好み寄生し、神と人との関係を破壊すべく誘惑する。もちろん罪は生きた「聖」(7:14)なる神の意志に歯向かえないが、「モーセは死に仕える務め」を引き受け、石板に自ら刻み直したその十戒には寄生できる。パウロは言う、「文字は殺し、霊は生かす。もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」(2Cor.3:6-8)。モーセの顔の輝きは束の間であり、輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:13)。かくして、「誓約書」について「この伝家の宝刀をゆめゆめ(努々)抜いてはならぬ」という自戒は新たにひとを縛る文字となり、さらに、罪に負かされてしまうであろう。

 律法主義とは「~為すべし」の命令法が先行し、直接法「君は義である」が後行する。福音は直接法「君は義であり救われた」が先行し、命令法「それにふさわしい実を結べ」が後行する。パウロは言う、「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。

 イエスが福音を実現しつつあるとき、「律法の一点一画とも廃棄されない」という山上での純化された語りははモーセ律法の新たな機能が罪を知らしめ福音に導くことにあることを知らしめている(Mat.5:18,Rom.7)。「先ず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)。福音は信に基づく義として歴史に打ち立てられた。悔い改めとは山上の説教を満たしえない自己に苦しみ信の律法のもとに移行することである。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。自らの正義を主張する者は自らの生活様式を維持したまま、自らの義の規準のもとに他者を審判するが、神の意志に即す悔い改めとは高ぶる自らが御子とともに磔られたと信じ、そこから解放され「キリストの律法」(Gal.6:2)のもとに彼と共に生きる者となることである。

 神は公平であり、「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)。神は、一方、古い旧約律法のもとに生きる者には業の律法を適用する。そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされる」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6)。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と報告される時、ヤコブは信の律法のもとに生き、エサウは業の律法のもとに生きたことが想定されている、ただエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない(9:13)。「滅びにふさわしい怒りの器を大いなる寛容のうちに忍耐したのなら・・」どうか(9:22)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。

 神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は目が曇らされ神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。

 信の律法のもとに生き「神の善性」に留まろうとする者への審判規準は「イエスの信に基づく者を義とする」神に対する幼子の信を抱くか否かである(11:22,3:26)。イエスはユダヤ教の伝統のただなかに「新しい契約」である福音を実現すべく信の従順を貫いた。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。

 業の律法の適用のもとでは姦淫者ダビデは救われない。パウロはダビデの詩を引き信じる者の義を語る。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに審判することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 寮則では朝礼拝出席しない者には朝食は「保障されない」。誰かがそのような「罰」を受ける筋合いはなく朝食分の金銭的保障を求めたとしよう。ここでも経営と創設の精神の実現という基本的なディレンマが顔をだす。まず管理者には寮生の健康を守ろうとする親の愛があるかを自ら吟味する。同時に健康のために生活を改め規則正しく7時に起き、共に讃美歌により心を清めて始めようと励ます。寮の支援者のおかげで市況より安く生活できている事実さらに調理職員は朝食三時間勤務の契約でありその後は住み込み職員の奉仕であることを伝える。それでもパンフに「二食付き」とあると抗弁されたなら、聖書には神は公平であり、「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)という諺を伝える。神が僻む者に僻む者として振る舞うとあるのは自らの魂の歪曲を神に投影しているからであり、悔い改めない限り憐み深い神に出合うことはない。僻む者は自らの欲望や思いを世界と神に投影し、その枠のなかでしか世界や神を思い描くことができない。 朝を皆で七時に食べ心を清めて一日を始めようという励ましを、脅しや罰という拗けた思考しかできず信頼のないところでは、業の律法に訴え寮則違反を指摘する。それはちょうど法治国家が「徒然に剣を帯びているわけではなく」、相対的自律のもと法による強制力を持つのと類比的である(Rom.13)。

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(Mat.22:21)。もちろん一切は神のものであるが、人間には委ねられているものがあり、また「肉の弱さ」「頑固さ」の故に法や政治そして経済制度等「人間中心的」にものごとに取り組むことが許容されている(19:8,Rom.6:19)。神の前にあることと法治国家のもと相対的自律性のもとにあることの関係は常に吟味される。パウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て。自ら識別することがらにおいて、自らを審判しない者は祝福されている」(14:22)。神の意志の啓示すなわち神がキリストにおいて為したことがらを常に自らのこととして責任ある自由のもとに受け止める。「信に基づかないすべてのものごとは罪である」(14:23)ことを思い起こし、自らの責任ある自由において遂行することがらが、信仰に基づくものであり審判でないかを吟味する。管理者は啓示された二つの神の意志の類比のもと相対的に自律した自らの責任において寮則を適用するが、主の如く赦しきれなかった自らの胸を打つこともあろう。

 パウロは信じることの喜びをうたう。「希望の神が、汝ら聖霊に満ち溢れるべく、信じることにおける喜びと平和で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(8:2)。この生命のなかで、規則は愛の目安、参考となるが、これらの規則は社会環境等により改変されることもあろう。寮則はモーセ律法のように神に啓示されたものではなく、生命に与りやすい環境を整えるための、人間中心的な生活の指針であり改訂可能である。しかし、人類には愛されたことの信に基づく義とその果実としての愛の一本道が照らし続けられている。十字架上で既に愛されていることを信じて、その都度業の律法に死に悔い改め信の律法に生きよう。それ以外に否定的なもの、破壊的なものを歴史から排除する道はないのである。

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平和への道(4)―一本の真っ直ぐな道―

日曜聖書講義2月5日(本年度最終講義)

 平和への道(4)—一本の真っ直ぐな道―

 

 聖書「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(マタイ7:13-14)。

 

はじめに

 本年度最終講義です。35回目です。今回で学寮を巣立つひとびとには別れの集まりということになります。無教会の伝統に即して「聖書講義」という名前ですが、これは毎朝食事をとるように、心の栄養を取る営みなのです。レシピのように情報としての知識の提供がおこなわれつつ、神様と出会い魂が刷新されるそのような場となることを願って毎週続けてきました。語る者拙く、35回提供された聖書の話をおいしくない、食べたくないと思う事が多かったことでしょう。ご自分の生活と関連性を見出せないと思うこともあったことでしょう。それでも最後まで出席し、共に食事に与ってくれた皆さんにはありがとうを、言いたい。よかったです。これが今後の人生にとって、少しでも栄養になればと願っています。語る者の第一の務めは毎週福音に立ち帰り魂が刷新され喜びをもってここに立つことです。このつとめに従事できたことは感謝です。魂の刷新なしには日曜のこの話はできないのです。

 

2悔い改め

 魂の刷新とは「悔い改め」と呼ばれる。その果実はイエスの「謙遜と柔和」をいただくことである。イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができるであろう(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 食事の前に手を洗うように、霊の糧をいただくには悔い改めが必要とされる。眼差しをこの世のこと、おのれのことから、天に向け直すことが求められる。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。

 悔い改めとは業の律法から信の律法に立ち帰ること、そしてそこで罪赦されたことを確認し、その証拠は隣人を愛しうることであるその信から義から愛への一本道を歩みうることである。業の律法から解放されることにより、600数十ある旧約律法は信の律法のもとにある愛に変換されている。ただ信による愛の実現に向かう一本道をキリストは指し示している。パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 

3 モーセは顔にヴェールをかけたがわれらはキリストを着る

 モーセは神の山で業の律法を与えられた。彼が十戒をさずかり麓におりてきたとき、彼の顔は輝いていたが、その輝きが消えるのを恐れて顔を隠したことが「出エジプト記」(34:33)において報告されている。パウロはその輝きの消えていくのを恐れてヴェールをかけたモーセを見逃さなかった。文字として律法を受けとめる限り、それは罪の寄生の巣となる。だからこそ、神の義は「律法を離れて」(Rom.3:21)福音において新たに啓示されたのである。パウロは福音により霊に仕える務めを死に仕える務めである業の律法と対比して言う。「もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」(2Cor.3:7-8)。神の山で十戒を与えられたモーセの顔の輝きはつかのまであり、彼は輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:13)。モーセは死に仕える務めを引き受けたのである。より少なく根源的な神の意志である律法は、かくして、悔い改めを介してキリストに導くものとして新たに位置づけられる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。

 業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:13)。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」(13:14)。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの信義に基づく愛においてわれらを見たまうということである。詩篇詩人は言う、「不法を赦され罪覆われし者は祝福されている」(Ps.32:1)。われらはキリストのヴェールを着せてもらうとき、神はわれらのこの醜悪な罪の現実を直視することなく、罪覆われた者として見給う。キリストがわれらの楯であり砦であり、衣服である。

 

4「わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して、[業の]律法に死んだ」

 パウロは「ガラテア書」において言う。「われらは自然本性においてユダヤ人であり、[業の律法を何らかの仕方で遵守しており]異邦人に基づく罪人ではない。しかし、ひとはイエス・キリストの信を媒介にしてでなければ、業の律法に基づいては義とされないことをわれらは知っているので、われらもまたキリスト・イエスを信じた、それはわれらがキリストの信に基づきそして業の律法に基づかず義とされるためである。というのも、すべての肉は業の律法に基づいては義と看做されないであろうからである。しかし、もしわれらがキリストにおいて義とされることを求めつつ、われら自身もまた[業の律法に基づく者と同様に]罪人であると見出されたなら、それではキリストは罪に仕える者なのか。断じて然らず。というのも、もしわたしが廃棄したものども、それらをわたしが再び建てるなら、わたしは自らが違反者であることを証明するからである。というのも、わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだからである。わたしはキリストと共に十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている。しかし、わたしは、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしを愛しわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:15-21)。

 この「ガラテア書」においてパウロは直截である。もはや自分は生きていないと言う。キリストを着ることによって、彼がわたしのなかで生きていたまう。キリストが共に生きているとき、われらはただ信から義そして義から愛への一本道を歩む。数百あるモーセ律法は「信の律法」(Rom.3:27)すなわち「キリストの律法」(Gal.6:2)のもとに愛に変換されている。われらはわれら自身の力では愛を充たすことができない。ただ、悔い改めにより信に立ち帰る。モーセ律法に対しては死んでしまったのである。この再生が悔い改めである。そこにキリストの現在(presence)と呼ばれる聖霊が宿っていたまうことであろう。パウロが「ローマ書」で信仰義認の理論を展開するが、その理論を読む者を聖霊がそこにおいて執り成していると理解することを妨げるものは何もない。パウロが「キリストがわたしを介して[神の知恵の]言葉・ロゴスによってそして[聖霊の]働き・エルゴンによって成し遂げたこととは何か別のことを語ることはないであろう」と報告するとき、彼は自覚として今・ここで働く聖霊の執り成しのなかで信仰義認論を展開している(Rom.15:18)。

 

5「すべて木に架けられた者は呪われている」―文字に寄生する罪による「律法の呪い」―

 「ガラテア書」においてパウロは業の律法のもとにいる者の「呪い」をこう語る。「誰であれ業の律法に基づく者たちは呪いのもとにある。というのも、こう書いてある、「律法の書にそれらを為すべく書かれているあらゆるもの[戒め]に留まらない者はすべて呪われる」。しかし、律法のうちにある誰も神の前に義とされないことは明らかである。というのも、信に基づく義人が生きるであろうからである。しかし、律法は信に基づいておらず、「それらを為す者が律法において生きるであろう」。キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした、われらの代わりに呪いとなることによって、というのもこう書いてある、「すべて木に架けられた者は呪われている」」(Gal.3:10-13)。

 ここでの問いは誰に或いは何にキリストが呪われたのかというものである。「律法の呪い」の「の」は文字の律法に囚われることによる呪いという理解に導く。「われら」は、罪が寄生する文字としての律法に囚われ欺かれ、キリストを磔た。そこから「われら」はキリストが代わりに呪われることにより「贖い」だされている。律法は神の意志としては「聖」であり「霊的」である(Rom.7:12,14)。しかし、モーセは神の指で書かれた十戒の石板を怒って割ったために、主の契約を新たに自ら書き直している(Exod.34:28)。「文字は殺す」(2Cor.3:6)。なぜなら、罪は霊的な効力のない文字としての律法には寄生しひとを神に背くよう唆すからである。ひとは自らの肉を「貪る」(Rom.7:7)とき、罪により文字としての律法が利用され誘われわれらを神に背かせる。

 キリストが「われらの代わりに呪いとなることによって」により、罪の寄生のもとにある神に背いた人間に呪われたと理解すべきである。罪のないキリストが生ける神に呪われることはやはり想定できない。そこでは神が不義となる。罪に誘われた人間たちの罪をキリストが受苦するという意味において呪われ、彼はその木に架けられるという「呪い」を通じて彼らの呪いからの贖いを遂行した、自ら信の従順を貫くことにより呪いに打ち勝ったという仕方で。神はそこで御子がわれらの肉に寄生する罪に呪われ死に至ることを認可している。その身代わりの愛故に神が予めご自身の子と定めた者たちに無償の「贈りもの」を与えることができる(Rom. 3:24)。

 

結論 業の律法の新しい機能と永遠の生命

 福音が啓示されることにより、パウロは「ローマ書」七章で業の律法に新たな機能を見出している。彼はそこで肉と「内なる人間」(7;24)と罪の三つ巴を描くが、誰であれ「汝貪るな」(7:7)と二人称で命じられている者が仮想的な一人称「われ・わたし」として誰にも当てはまる仕方で主語に立て、自らに巣食う罪の罪性の著しさを知ることによって葛藤し、その葛藤を通じて悔い改めに至る過程を論じている。悔い改めとはモーセ律法からキリストの律法のもとに方向を転換することである。

 新しい葡萄酒は新しい革袋に入れられねばならない。「ガラテア書」において「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした、われらの代わりに呪いとなることによって」と語られ、この「律法の呪い」は人類が文字としての律法に留まる限り、神によるものではなく、罪に寄生されている文字としての律法の呪いとなったと理解すべきである。かくして、人間的には罪に呪われたら死ぬしかないであろうが、イエスは神の前では清い無罪のままであり続けたため、殺されたのち永遠の生命のみなもととなったのである。彼は罪に誘われた人間からの呪いを受けたが、それに抗してナザレのイエスは十字架上で嘉みされている。神はそこに現臨していたまうた。

 神は十字架上のイエスを見捨ててはおらず、共にいました。イエスは罪なき者、信に基づく義でありつつ、人類の罪を担ったが故に、神は十字架上のイエスの肉において、むしろ、罪を審判したのである。「ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(Rom.8:3)。 神はひとびとの背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、罪をそれ自身としてキリストにおいて罰した(2Cor.5:19)。罪と「罪の給金」である「死」に対し甦りの主は勝利したのであった(Rom.6:23)。

 

 卒寮生の皆さんは社会にすだっていきます。何か学寮のことを思い出すことがあったなら、そのときこの「福音」のことも思い出してください。今はわからなくとも、いつか必ず力になることでしょう。人生は探求です。喜ばしい探求です。前途の祝福を祈ります。

 

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平和への道(3)―魂の医者とかわす新しい契約—

  • 日曜聖書講義 2023年1月29日 (本稿については録音はありません)

  • 平和への道(3)―魂の医者とかわす新しい契約—

  • 聖書

  •  「イエスはそこをたち、とおりがかりに、マタイという人が酒税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。パリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」といった。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしは憐みを欲し、犠牲を欲しない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人々を招くためではなく、罪人たちを招くためである。

  •  そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとパリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」といった。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時がくる。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、敗れはいっそうひどくなるからだ。人々は新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:9-17)

  • 1医者を必要とする者は病人である。

  •  わたしはかつて魂の医者を必要としていた。そして良い医者にであって、相当快復した。しかし、肉の弱さを抱えているため、その医者の処方に常に従ってきたわけではなく、教えに背き再び病状が悪化することがある。その病気は直接には目に見えない魂の病であるが、魂を癒す医者にはその病状は良く見えている。その医者にかからなければ、病を病として認識できない。魂の病はその医者との関係において、定まる病である。とはいえ、自らを顧みるとき、全体としては明確に快復傾向にある。かつての自らの病状を思い返すことにより、それは明確に認識できる。かつてあれさえなかったらと思っていたことが、あれがあったからこそと思えるようになる。負の歴史が正の歴史に変換される。

  •  魂とは身体がそれによって生きるところの生命の原理また意識活動の原理であるので、身体にその症状が現れ、多くの場合他の人々にも明らかとなる。様々な症状が考えられるが、端的に言えば、ひとびととの良好ならざる関係においてその症状は顕著になる。ひとびとを傷つけ、人生の運命を悪い方向に変えてしまうことは最も顕著な症例である。そしてそれは罰としての死に至る。パウロは言う、「一九われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。二〇というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。二一では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。二二しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。二三なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。

  •  平和への道は罪の赦しに基づくしかないと個人的には確信している。わたしはかつて「いかなる果実を得たのであろうか」。思い出すのもおぞましい死の臭いのただよう腐敗であった。ひとびとをそれにより不幸にしてきた。「堅くたって、二度と罪の奴隷の軛につながれるな」(Gal.5;1)と言われる。魂の医者はわたしにはキリストである。キリストのもとにその都度立ち帰り、その癒しを受けて、ひとびとと新たな思いで接する。その都度悔い改めて、良きサマリア人のように隣人となるように心がける。かつての腐臭放つ果実を思い出し、二度と奴隷の軛に繋がれたくないと心を改める。悔い改めとは業の律法から信の律法に方向を転換することである。信の律法に立ち帰り、もはや隣人をも自己をも審判しない。十字架上で罪が赦されてしまっていることをその都度信じる。

  •  ホセア書にあるように、神ご自身は人々から犠牲を欲することはなく、憐みを欲している(Hosea 6:6)。イエスはこの意味を考えるように促している。旧約律法の遵守としてアザゼルの山羊のように自らの罪の贖いのために、山羊の背に石をくくりつけ荒野に放ち野垂れ死にさせる、そのような犠牲は求められていない(「贖罪の献げもの」については例えば「レビ記」16章参照)。所謂スケープゴート(身代わりの山羊)である。神ご自身が被造物から憐みを受けることではなく、被造物同士で憐みを掛け合うことを神は欲し求めている。羊飼いのいない羊のように彷徨っているわれらにイエスは腸(はらわた)から「深く憐れんだ」ことそして彼は神の国について「多くを教えた」と報告されている。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」 (Mat.9:36,cf.Mak.1:41、6:34)。神はわれらの罪の現実を憐れんでくださる。

  •  

  •  2新しい革袋と古い革袋

  •  「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)。イエスはユダヤ教の伝統のなかで「新しい葡萄酒」と呼ばれる福音を持ち運んだ。「新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。神は、一方、古い旧約律法の革袋のもとに生きる者には「業の律法」を適用する。そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6)。モーセ律法においては「貪る」か「貪らない」かにより、「盗む」か「盗まない」かにより義と罪が定まる。

  •  他方、「信の律法」のもとに生き「神の善性」に留まろうとする者への審判規準は「イエスの信に基づく者を義とする」神に対し幼子の信を抱くか否かである(Rom.11:22,3:26)。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない(9:13)。「滅びにふさわしい怒りの器を大いなる寛容のうちに忍耐したのなら・・[どうであろうか]」(9:22)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は目が曇らされ神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全(adokimēn noun)に引き渡した」(1:28)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。 まさに神は「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。

  • 3新しい契約—数百の律法は愛の律法に変換される―

  •  福音は「新しい契約」の革袋にいれられる。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(Jer.31:33)。

  •  この約束への神の信実に基づく正義は、御子を派遣しその信の生涯により確立された「福音」と呼ばれる神の愛において確認される。御子は「神の子の信」の従順の生を貫き神の義の啓示の媒介となった。イエスは、今・ここにおいて福音を持ち運んだが、その実現の極において、彼を十字架に磔た敵である罪人の罪を贖うべく、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げた。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John.3:16)。

  •  それによりモーセ十戒の古い契約に基づく「業の律法」はイエスを介して十字架において成就した神の意志「信の律法」に秩序づけられ、包摂されるに至った。数百ある業の律法は信の律法のもとで愛に変換された。神への愛と隣人への愛「これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちは基づいている」(Mat.5:18,22:40)。「愛は隣人に悪を行わない。かくして愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。業の律法は愛を介して信の律法に変換された。愛は神に愛されていることの信に基づき発動し、律法は満たされうる。というのも「愛を介して働いている信が力強い」からである(Gal.5:6)。こうして、律法の一切は「神の信」に基礎づけられる(Rom.3:3)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:22)。

  •  かくして、モーセ律法のように「貪る」か「貪らない」かではなく、「信じる」かそれとも「裏切る」かにより神の前で義と罪は定まる。自らの涙と髪で主イエスの御足を清める女性についてイエスは言った。「彼女の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。自ら罪赦されたことの証が愛しうることであるなら、ひとは歯を食いしばって悪人に手向かわず右の頬を打たれ、左をも向ける。一切を神の愛への信のもとに愛において応答する。平和はこの信の根源性によってのみつくられる。

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  • 4 契約と誓い

  •  学寮に赴任したさいに「寮生活が不適の場合には退寮することに同意します」という「誓約書」を見て、驚いた。罪はもちろん「霊的」で「聖」なる神の意志に歯向かうことはできないが、モーセが刻み直した文字としての律法には寄生できる(Rom.7:12-14)。「文字は殺し、霊は生かす」(2Cor.3:6)。「この伝家の宝刀をゆめゆめ(努々)抜いては・・・」という一文は新たにひとを縛る文字となり、さらに、罪に負かされてしまうであろう。

  •  山上の説教における「誓うな」の戒めが迫る。イエスは言う、「また汝ら昔の人々にこう語られたのを聞いている。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」。しかし、わたしは言う、一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、汝の頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、白くも黒くもできないからである。汝らは、「然り、然り」、「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者からくる」(Mat.5:33-37)。

  •  確かにわれわれは自然上髪の毛の色を変えることはできない。自然法則に基づいて、生きざるをえないように、神の前の法則を正しく知る必要がある。神の前では誓いは無用である。人々はこれにより司法制度が成り立たないと考えたが、肉の弱さへの譲歩としての人間中心的な政治や経済そして司法の諸制度は許容されている。山上の説教は「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」と、神との関係において律法そして道徳を極性化、純化している(Mat.5:48)。神の前には一切が明らかであるので、誓う必要もない。信の律法に立ち帰りそのつど、その通りであるものには「その通りです」と言い、或いはその通りでないものには「いえそうではありません」と語れば十分である。神の前に誓えると思うのは自惚れにすぎず、おのれを知らない自己欺瞞である。信の律法を与えられたことに、つまりわれらは神の前に罪人であり、信に立ち帰ることにより義とされるということに、「その通りです」と語るだけでよい。文字としての律法をたてにとり、誓ったのだから守れと言ってもそれは罪に負かされるだけである。

  •  文字として律法を受けとめる限り、それは罪の寄生の巣となる。だからこそ、神の義は「律法を離れて」(Rom.3:21)福音において新たに啓示されたのである。パウロは言う、「もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」。神の山で十戒を与えられたモーセの顔の輝きはつかのまであり、彼は輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:7,13)。彼は死に仕える務めを引き受けたのである。より少なく根源的な神の意志である律法は、かくして、悔い改めを介してキリストに導くものとして新たに位置づけられる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。業の律法の新しい機能は罪を知らしめることである。パウロは言う、「われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である」(Rom.7:7-12)。

  •  モーセ律法は正しく福音に秩序づけられねばならない。業の律法が神の意志である限り、「天地が過ぎ去るまで律法から一点一画たりとも過ぎ去らない」とイエスご自身はモーセ律法の純化のなかで業の律法への尊敬を貫いた。イエスは「律法を廃棄するためではなく、成就するために」来られたのであり、死に至るまで信の従順を貫くことにより成就した(Mat.5:17-18)。

  •  

  • 結論 契約に基づく信頼関係

  •  契約は或る種の均しさにおける対等な者同士の信、相互信頼に基づく約束である。その背後に寮生各位はキリストにおいて神に愛されているという当方の信がある。そこでは数百ある業の律法は信の律法のもとにおける愛の律法に変換されている。寮長はこの信に基づく「義の果実」として喜ばしい「愛」の職務を担う(Phil.1:11)。それは寮生各位の安全と健康をまもり、学業成就に向けて支援し、立派に社会に送り出すことにある。そのことをことあるごとに肝に銘じる。最後までそれを成し遂げ得たなら、それは義とされた者の良き果実であると言える。もはや「律法のもとにではなく、恩恵のもとに」生きている(Rom.6:15)。他方、寮生諸君にとって、この契約への信の果実は如何?今言えることは、契約の信頼関係に戻ろうと言うことである。

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平和への道(2)―悔い改め—

平和への道(2)―悔い改め—

日曜聖書講義 2023年1月22日

聖書

「娘シオンよ、大いに踊れ。歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリア書9:9-10)。

 

「弟子たちはろばの子をイエスのところに連れて来た。彼らは自らの上着を子ろばのうえに敷きやってきたイエスを強いて乗せた。彼が進むと、人々は自分たちの上着を道に敷き広げた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかったとき、弟子たちの群はこぞって、自分の見たあらゆる力ある業を喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名において来ておられる王が褒めたたえられますように、天には平和が、いと高きものたちには栄光がありますように」。すると、パリサイ派のある人々が、群衆のなかからイエスに向かって、「先生、弟子たちを叱ってください」と言った。イエスは答えた言った。「汝らに言う、もしこの者たちが黙れば、[破壊される都の]石が叫びだすであろう」。エルサレムに近づき、都を見たとき、イエスはその都にたいし涙を流した。そして言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」(ルカ福音書19:37-44、参照「われらの憐みの神の憐み故に、そこにおいていと高きところからの光輝きがわれらを訪ねるであろう。「暗黒と死の陰に座すものを照らし」われらの足を「平和の道」に向かわせるであろう」Luk.1:78(Ps.107:10, Is.59:8))。

 

1新しいものとの出会い

 ひとびとのあいだに不和や争いがあるとき、それはわれらの罪の故にである。先週このことを学んだ。ひとはどこからひとを愛する力を得るのだろうか。もしおのれの臍のみを眺め、自らにしか関心がなければ、常にその自らの利益との関連で周囲の人々との関わりが、時間と空間が位置付けられるであろう。眼差しは内側を向いていると言える。自ら関心のあるもの、好きなものは確かに自らの外にあるであろうが、自らの欲求、欲望の投映でしかない。そこに、新しいものとの出会いはない。シモーヌヴェイユは言う。「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。

自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。悪というのは単調なものである、そこには何ら新しいものがないからである。

 われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。われらの、たとえ刺激に満ちていると思っても、生活が単調であるとき、空想のなかで自己を肥大化させている限り、何ら新しいものに出あわない。現実の何か確かなものにゴツンとぶつからない限り、夢から覚めることはないであろう。

 

2 律法主義と良心

 ひとはただ業の律法を投げ捨てることはできない。たとえ律法を捨てても、良心が律法として働く。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。「一四律法を持たない異邦人たちが自然に律法のことがらを行う時、その者たちは律法を持たずにも自らに対し律法なのである。一五 一六彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発し或いはまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(Rom.2:14-16)。かくして、「良心(sun-eidesis)・共同の知識(con-science)」が社会通念、共同体との共知であれ、放埓者同士のあいだでの共知であれ、ひとは業の律法から自らを解放することはできない。空き家になった心に常に何かがはいりこみ、自らを隷属させ支配する、それがデヴィルであれ、自らの救いの条件であれ。

 モーセの十戒、山上の説教、司法的な次元での分配の正義のもとでの懲罰の働きはわれらに罪それ自身の醜悪さを知らしめ、罪に勝利したキリストに導くことであった。一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」(Rom.7:25)と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。

3悔い改め

 悔い改めは旧約においては、基本的には、業の律法の内側のことで遂行された。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の現臨を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。

 業の律法のなかで悔い改め、良い行いをすることではなく、業の律法から信の律法のもとに移行すること、それが悔い改めである。「神に即した苦悩は後悔なき悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。業の律法のもとに、自らをそして他者を審判しながら生きること、これは苦しみである。律法や理想の文字に頼るとき、ひとは生命なき働きを、せいぜい心の内側ではなく、外側でつじつまを合わせる、形だけの律法を守るそのような生活となる。「文字はひとを殺し、霊はひとを生かす」(2Cor.3:6)。このような生命のない生活は続けられないこれに気づくとき、福音により生命に至る信の律法が切り開かれたことに導かれる。

 まず、自らの欲望や、理想や律法の投映ではなく、イエスの十字架と復活にいたる信の生涯を自らのことがらとして受容すること、それが悔い改めである。悔い改めによる魂の刷新を頂き真っすぐな道を歩む。罪赦されたことの証は、自らの涙でイエスの足を洗う女性に見いだされる。イエスは言う、「彼女の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。信に基づく正義とその信義の「果実」(Phil.1:11)は愛しうることである。自らの罪が「赦されてしまっている」ことの証は愛することに確認される。「木はその果実によって知られる」。罪の赦しは神の前のことがら、神の専決行為であるが、この歴史におけるその証は愛しうることでありますなら、われらは新しくされ、歯を食いしばって敵をも愛する。

 旧約の古い革袋を破るイエスの山上の説教は、その厳しい言葉を自らの信の従順による完遂故に、福音の革袋である信の律法のもとで愛の戒めに収斂、変換されている。われらは「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)、即ちモーセの古い革袋から解放されて、新約の革袋のなかで生命の泉に与ることであろう。時代が厳しくなるほど、この端的な生命の泉を渇き求める。信義に基づき愛しうること、そこに生命の泉が湧いてくる。

 パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。ここでも過去形が救いの確かさを表現している。われらの外の出来事がわれらの出来事なのである、聖霊が執り成している限りにおいて。

 この生命に触れることは聖霊の今・ここの働き・エルゴンである。これは経験するしかないというわけではなく、一般的に神とひとの媒介としてあの十字架と復活の過去の出来事を自らの出来事とさせるそのようなものであると理論化することができる。神のもう一つの根源的な意志である信の律法により業の律法から解放される。そこでの業の律法から信の律法への移行は悔い改めによるが、生命の霊の律法により導かれる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2.Cor.7:10)。ここに福音のダイナミズムがある。

 キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き新約においては律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。

 

結論 残りの者も国家(肉)において生きている

イエスの認識において人類の歴史に対する楽観が一切ないこと、それが歴史の最先端にいる者に自覚を促す。各人はどこまでも自らの責任ある自由においてこの歴史を生きる。イエスは少数者の自覚のもとに信の根源性にその都度立ち帰ることが歴史に対する正しい取り組みであることを教えている。かくしてイエスの弟子たる者は無抵抗、無審判の山上の説教に即してイエスの軛を共に担い彼の「柔和と謙遜」を身にまとい、共に歩む抜くことが人生の目標となる。イエスに従う者は「残りの者」としてその証を立てることに専心する。その生を導くものは信に基づく正義である。

われらに不和があり争いがあるのはわれらの罪の故にである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。戦争がその最も先鋭化した姿である。イエスは言う、「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。不正により全世界をわがものにしても、信に基づく義により与えられる神的な生命を失うとき、それを償うものはこの世界になにもない。この発言はカントが中世の言葉として引用する「正義をして支配せしめよ、たとえ世界が滅ぶとも」と同じ内実を持つものである。この格言は、イエスの不正による世界支配の視点を転換し、正義の実現のほうが世界の存続より重要であることを伝えている。たとえ世界が不当な仕方で不正義のもとに所持され存続したとしても、正義が蔑ろにされるとき、世界にとって生存の意味はない。換言すれば、正義により魂が神の前で保全されなければ、世界の存在に意味はない。正義がなければ、個々人の存在に意味がないのと同様に、生命原理である魂以上に人間にとっては重要なものはなく、その魂は正義なしに維持されない。詩人は言う、魂は褒めたたえるために生きる、と。「塵は汝を褒めたたえんや、汝の真理を宣べ伝えんや」(Ps.30:16)。われらの罪を悔い改め信に立ち帰ること、それが選ばれた少数者のその都度の道である。

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平和への道―イエスの歴史観―

平和への道―イエスの歴史観―

                     (録音は4節まで)   日曜聖書講義 2023年1月15日

聖書

「娘シオンよ、大いに踊れ。歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリア書9:9-10)。

 

 「弟子たちはろばの子をイエスのところに連れて来た。彼らは自らの上着を子ろばのうえに敷きやってきたイエスを強いて乗せた。彼が進むと、人々は自分たちの上着を道に敷き広げた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかったとき、弟子たちの群はこぞって、自分の見たあらゆる力ある業を喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名において来ておられる王が褒めたたえられますように、天には平和が、いと高きものたちには栄光がありますように」。すると、パリサイ派のある人々が、群衆のなかからイエスに向かって、「先生、弟子たちを叱ってください」と言った。イエスは答えた言った。「汝らに言う、もしこの者たちが黙れば、[破壊される都の]石が叫びだすであろう」。エルサレムに近づき、都を見たとき、イエスはその都にたいし涙を流した。そして言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」(ルカ福音書19:37-44、参照「われらの憐みの神の憐み故に、そこにおいていと高きところからの光輝きがわれらを訪ねるであろう。「暗黒と死の陰に座すものを照らし」われらの足を「平和の道」に向かわせるであろう」Luk.1:78(Ps.107:10, Is.59:8))。

 

1イエスの悔し涙

 イエスは人間が平和の道をわきまえていないことを叱責したことがここで報告されている。イエスは人間の罪が人生の窮境をもたらすと主張する。これは紀元七十年のティトス将軍ひきいるローマ軍によるエルサレム陥落を預言したものであろう。ユダヤ人たちがイエスにおいて既に神が訪れていることをわきまえないことによる、国家の崩壊である。いつであれ、どこであれ人類における平和のなさは罪の故にであることの明確な認識が求められる。罪がはびこる限り人類には平和は訪れない。イエスはそれに涙する。

 彼は幼少時からエルサレム神殿を訪れ、ユダヤ人としてこの都に畏敬の念をもちこの都を愛していた。神殿が商売に利用されていることを知って、商人たちを乱暴に追い出しさえしている(Luk.19:45-48)。神に選ばれた都そして礼拝の場としての神の宮に対する愛情が強いからこその、その都が崩落してしまうことへの屈辱が涙になったのだと思われる。ひとが悔し涙を流すのは、生起した現実を受け止め、承認することのできない状況においてである。イエスはろばの子に乗り、一行がオリブ山の下り坂にさしかかったそのとき、エルサレムの神殿が目にはいってきた。そのときイエスは、自らの心に城壁がくずれていくその近い将来の光景を心の目で見たのであろう。彼は言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」。イエスの心の目にはこの悲惨な光景が浮かび、その衝撃にたいする憤りと憐みと悔しさにとらわれ、イエスは涙を流した。ひとびとは天の父がイエスを送り、ご自身の民への愛を示しているにもかかわらず、この神ご自身の「訪問の好機」を逃してしまっている。なぜイスラエルの民は預言の成就を悟らないのだ。ユダヤ民族の罪、心の鈍さへの怒りとイエス自ら愛するものを護ることのできない悔しさが、都を見たときに、涙となって表れたのであろう。ひとは自らの罪のゆえに、神に指し示された光の道を歩もうとせず、闇の道を選ぶ。他方、この都への入場の機会に、イエスご自身は十字架の道が与えられた使命であることを改めて覚悟する。

 

2 残りの者の歴史

 神の歴史につらなる者たちは旧約以来少数であり、「残りの者」と呼ばれる。イザヤは言う、「汝の民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが返ってくる。滅びは定められ、正義がみなぎる」(Is.10:22)。「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって麗しい冠、輝く花輪となる」(Is.28:5)。「主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え・・そして言え。「主よ、汝の民をお救いください、イスラエルの残りの者を」」」(Jer.31:7)。

 新約聖書においても、この認識はかわらない。パウロはイザヤを引用して言う、「「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも、すみやかに、言われたことを行われる」。それはイザヤがあらかじめこう告げていたとおりである。「万軍の主がわれらに子孫を残されなかったなら、われらはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」」(Rom.9:27-29)。ソドムやゴモラのように滅びてしまうことへの恐れから、ひとは悔い改めに導かれる。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。「神に即した苦悩は後悔なき悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。

 自らの罪を悔い改めた者たちが残りの者とされる。残りの者たちは、主人が突然帰ってきたとき、忠実に自らの義務、仕事を行っている者たちである。善かつ忠なる僕、僕女(しもめ)たちは残りの者として主の狭く真っすぐな道を歩みぬく。「主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」(Mat.12:47)。残りの者たちはもはや徴や証拠を求める者ではなく、証を立てる者となる。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として(eis marturion)全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(Mat.24:12-14)。

 

3 イエスの歴史観

 イエスの歴史観が報告されている。イエスは歴史に対して楽観していない。イエスは終わりの日に耐え忍んで神を求める者たちに正しい審判を約束しつつ、選ばれた残りの者たちの状況についてこう語る。「イエスは、自分たちが常に祈りそしていい加減に振る舞うべきではないことに向けて彼ら(弟子たち)に譬え話を語った。「ある町に神を畏れず人に耳を傾けることをしない裁判官がいた。その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「私の敵対者から裁きによって私を護ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間とりあおうとしなかった。しかし、その後考えた。『自分は神など恐れないし、人に耳を傾けることをもしない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私を困らすに違いない』」。それから主は言われた、「この不正な裁判官が何を語っているか聞きなさい。神は、しかし、昼も夜も助けを叫び求めている選ばれた者たちのために正しい裁きを行わずにいることがあろうか、彼らに対し悠長にしていることがあろうか。私は汝らに言う、神はすみやかに彼らに正しい裁きを行ってくださる。しかし、人の子が来るとき、はたして地上に信仰を見出すであろうか」(Luk.18:1-8)。

 「選ばれた者たち」は歴史の不条理に苦しみ理不尽な死をも経験しよう。しかし、彼らの悲しみと喜びとともに情状酌量の余地をも一切を正確に知り、しかも憐み深い神がおり、正確な裁きが行われる(cf.Rev.211-4)。イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして[天国について]多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの憐みを示し、柔和であり謙遜であった。人々は自らが選ばれた者であるという自覚のもとに終わりの日までどれだけ耐え忍んでいるであろうか。イエスはその信の貫徹に楽観的ではない、それは罪があり苦難があるからである。

 イエスはこうも言う。「わたしが地に平和を投じるために来たと思うな、平和ではなく、かえって剣を投じるために来た」(Mat.10:34)。厳しい言葉が次々に投げかけられる。ひとはそのつど悔い改めにより、新たに生きなおす。歴史の個々の具体的な状況のなかで悔い改めるのは個々人である。

 ナザレのイエスは山上の説教においてモーセ律法を内面化、純化し究極の道徳を説いた。良心(sun-eidēsis=con-science)は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」という仕方で突然働く一つの知識である(Mat.5:23)。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。イエスは旧約律法の枠内に留まりつつ、聴衆が旧約の内側から自らの力で正義を実現しようとする道徳的行為に巣食う各人の魂の偽りを指摘していた。イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて、聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく、イエスはこれらが神自身の認識であることを伝える。イエスは言う、「かくして汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全でありなさい」(Mat.5:48)。パウロは人のあるべき姿として神の前で明らかなこれらのことがらが「汝らの良心にも明らかになっていることを望む」と語り、神自身の認識を人が自らの良心において受け止め認識するよう、その共知を目指している(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

 イエスは良心に訴え一旦道徳を内側から破り、信仰に招く。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが汝らの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。・・まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.5:44-6:33)。恵み深い神との正しい関係を信仰により築くことにより根源的な正義が開かれる。「わたしは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。この神の約束に信頼すること、それが信仰である。神の信の先行性のもとにひとの応答としての信により形成される等しさが関係の正義を生む。国家が法により秩序を維持するさいに関わる正義を当事者の行為にふさわしい等しさの「配分の正義」或いは「秩序維持の正義」と呼び、信仰による神の信とひとの信の或る等しさの成立を「関係の正義」或いは「根源的正義」と呼ぶ。この信に基づく「義の果実」が「愛」である(Phil.1:11)。「愛は隣人に悪を行わない。愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。愛されていること、憐みをかけられていることの信なしに愛に到達しない。ただ、信から愛の道を歩む。

 

4残りの者も国家(肉)において生きている

 このイエスの危惧或いは厳しい預言は各人が少数者の自覚のもとに信の根源性にその都度立ち帰ることが歴史に対する正しい取り組みであることを教えている。人類の歴史に対する楽観が一切ないこと、それが歴史の最先端にいる者に自覚を促す。各人はどこまでも自らの責任ある自由においてこの歴史を生きる。かくしてイエスの弟子たる者は無抵抗、無審判の山上の説教に即してイエスの軛を共に担い彼の「柔和と謙遜」を身にまとい、共に歩む抜くことが人生の目標となる。イエスに従う者は「残りの者」としてその証を立てることに専心する。その生を導くものは信に基づく正義である。

 われらに不和があり争いがあるのはわれらの罪の故にである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。戦争がその最も先鋭化した姿である。イエスは言う、「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。不正により全世界をわがものにしても、信に基づく義により与えられる神的な生命を失うとき、それを償うものはこの世界になにもない。この発言はカントが中世の言葉として引用する「正義をして支配せしめよ、たとえ世界が滅ぶとも」と同じ内実を持つものである。この格言は、イエスの不正による世界支配の視点を転換し、正義の実現のほうが世界の存続より重要であることを伝えている。たとえ世界が不当な仕方で不正義のもとに所持され存続したとしても、正義が蔑ろにされるとき、世界にとって生存の意味はない。換言すれば、正義により魂が神の前で保全されなければ、世界の存在に意味はない。正義がなければ、個々人の存在に意味がないのと同様に、生命原理である魂以上に人間にとっては重要なものはなく、その魂は正義なしに維持されない。詩人は言う、魂は褒めたたえるために生きる、と。「塵は汝を褒めたたえんや、汝の真理を宣べ伝えんや」(Ps.30:16)。われらの罪を悔い改め信に立ち帰ること、それが選ばれた少数者のその都度の道である。

 残りの者は国家において生きていることを正面から引き受け、司法制度等の国法に従い懲罰の配分的な正義のもと、法に従い秩序を保ち義務を果たすことであろう。「われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っている」(Rom.12:6)。そこでは為政者のタレントを持つカエサルは自らの心奥に立ち帰り、そのつど罪を悔い改めて、譲歩された人間中心的な世界で統治者として自らの責任において、国家の安寧と秩序を維持すべく国を法のもとに正義にかなって統治するであろう、神の国をめざしつつ。そこに矛盾がないとしたなら、二種類の正義があり、信の律法により業の律法が秩序づけられており、配分的正義は愛により基礎づけられているからである。そして愛は信により基礎づけられていた。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない」(Is.2:4)。

 

5「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広い」(Mat.7:13)

 山上の説教は良心による道徳の内破とともにこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られている。神に嘉みされる心魂の態勢が八つ挙げられ、イエスはその心魂を祝福する。それは、ひとは神に向けて造られているからであり、後の日に慰められ、神に出会うと励まされる。この世のいかなるものによっても満たされないその霊によって貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢えそして渇いている、憐れむ者、その心によって清らかな者、平和を造る者、義のために迫害されている者を神は祝福するが、十字架上のイエスはまさにその一人であった(Mat.5:1-10)。御子の派遣とは死に打ち勝ち天国で神にまみえるその力を人類に知らしめることであった。イエスは言う、「これらのことを話したのは汝らがわたしによって平安を得るためである。汝らには世で苦難がある。しかし、雄々しかれわれ既に世に勝てり」(John.16:33)。

 聖書は明確に神の意志に即する残りの者たちに関係の正義を教え、いかなる立派な行為よりも手前に神との関係を正すことを教える。ここに人間としての本来性があるからである。これら八福は実は本来的人間のこの世界にある現実を示している。闘いなしにはない、しかしそれは信仰の正義の闘いであり、この信仰を持ち続けるための闘いである。この世界のどん底に落とされても、信仰を持つことはできる。信仰とは、知識や立派な人格などとは異なり、「欲すること」と「行うこと」が同時でありうるわずかなことがら、根源的なことがらである。それ故に、二心さえなければ、幼子のごとくでありさえすれば、誰もが持ちうる心の態勢である。

 

結論

 イエスはガリラヤの野辺に招きたまう。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう」(Mat. 11:29-30)。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしが去るならば、わたしは助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(John.14:18,16:7)。イエスはその言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、また山上の説教の故に死んだ。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John. 3:16)。イエスを介して派遣された聖霊は山上の説教における道徳的存在者としてのひとの究極的な在り方を実現させるそのような聖性に相応しい。かの聖なる方がひととしてガリラヤの野辺を逍遥されたのである。

 ひとはガリラヤの野辺をただまっさらな目と心をもって歩かれたキリストのところになら行くことはできる。彼はどこまでも信実であり、憐みたまう。彼は共にわれらの軛を共に担ってくださる。「わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしがその心によって柔和でそして低いことを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」。イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、栄光を捨てひととなった低さとそれに基づく弱小さへの憐みと柔和さが次第に伝わってくる。キリストと共に担う軛とは自らが神の子であるとの信仰であり、その荷とは彼から伝わる柔和と謙遜であるが、キリストの低さと共にあることによりこの世から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさである。復活の主がいますところ、父なる神が聖霊において共にいましたまう。

 

 

 

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良い木は良い実をむすぶ 最終回―クリスマスに想う―

良い木は良い実をむすぶ 最終回―クリスマスに想う―

   2022年12月18日

 [本年最終です。今年度31回目になります。今週は先週の続きで「良い木は良い実を結ぶ」のその5最終回です。録音は結論までです。よいクリスマスと新年をお迎えください]。

聖書

 「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサス(ハアザミ)から葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。

 「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。

 かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。

 イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。

1 クリスマス

 クリスマスです。感謝です。闇は光に打ち勝ちませんでした。救いの光が燦然と輝き、われら人類の歩むべき真っすぐな道を照らしています。この道を歩む限り天の父の子となることができる、その幼子の信が不思議な平安とともに沸き起こります。信じることができるだけで嬉しい、そのような思いに満たされます。わたしのなかに自らを救い出す力のないことを確かなこととして認めることができます。無力です。死に勝ち給うた主イエスのあの復活の永遠の生命のなかにわれらが憩うとき、彼の柔和と平安がわれらを包みます。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことです。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わります。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができます(Gal.6:1,Mat.5:9)。彼は「われ既に世に勝てり」と言われた方です。

 不思議な平安、不思議な力これはすべてわれらの魂はこの人生で終わりではないという信から来ます。信仰が生活になっているひとには基本的にその平安のうちに日々を過ごします。たとい何が起きても、立ち帰る場所が、光の場所があります。

 山上の説教はこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られています。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。実はひとはこの世のいかなるものによっても満たされないそのような霊の貧しさを抱えているのです。神に向けて造られているから、神を仰がざるをえないのです。そして御子の派遣とはこの死に打ち勝ったその力を人類に知らしめることでした。主イエスと共に生きる限り、死の恐れは取り除かれます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名(みな)にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(Ps.23:1-4)。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適うひとにあれ」(Luk.2:14)。

 宇宙一切を統べ治めたまう神がひととなったこと、これがクリスマスの使信(メッセージ)です。80億の人類は大丈夫なのです。ひとりも取り残されないのです。11世紀の神学者アンセルムスは聖書を引用せずに、理性のみにて神は単に思考においてあるだけではなく、ものごとにおいてもあり、生きて働いていたまうことを証明しました。弟子のボゾは無神論の立場をひきうけ、アンセルムスに次から次に懐疑をぶつけます。すべて解決したときに、ボゾはこれらの長い対話の終り近くで、信じうることそれ自身が喜びであることを表白します。それは信が明確なロゴス(理ことわり)をもっていたことの認識からくる喜びです。「何もこれ以上理に適うものはなく(nihil rationabilius)、何もこれ以上甘美なるものもなく、何もこれ以上、世が聞くことのできる望ましいものはありません。私はこのことから、わが心がどれほど喜びにあふれているかを語ることができないほどの信を抱きます。といいますのは、神はこの御名のもとにご自身に向かういかなる人をも受け入れたまわないことはないと私には思われるからです」 (Cur Deus Homo 「何故神はひとととなったか」II19)。

 

 2 山上の説教の三種類の解釈

 山上の説教を中心に今年度30回学んできました。ほとんど休まずに参加してくれた君たちにお礼を言いたいとともにこの喜びをあらためて分かち合いたい。信じることができるというだけで嬉しいのです。福音は理にかなったものなのです。そして永遠の生命の力溢れるものなのです。

 山上の説教をめぐる幾つかの解釈をみてきました。道徳的な次元で自らの力で良い実を結ばないものは火で焼かれてしまう。立派な行為をうみだす者だけが「天の父の子」となるという理解。ウルリヒ・ルツは神についてこう語っていた、「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである」(U(ウルリヒ)・ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。これを律法主義的解釈と呼ぶ。

 或いは、良き木と良き実を一なる全体として捉えることが正しいとする理解。ユリウス・シュニーヴィントは「比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である」と言うJ. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。。これは原因と結果を媒介する聖霊の介在のもとに個々人を全体として捉え、山上の説教はキリストの憐みにより満たしうるとする理解である。これを聖霊論的解釈と呼ぶ。

 或いは、やはり誰も山上の説教を生き抜くことはできず、その律法成就の不可能性への審判を通じて信仰に招くという理解。これをルター主義的であり律法の審判から福音に追いやる断絶的解釈或いは神頼みの信に導く解釈と呼ぶ。エドワルド・シュワイツァーは道徳的次元に留まり、常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対してこう問う。「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものであるE.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。これは神頼みのであり、信仰も責任ある自由のもとでの決断ではなく、律法を守りえない者の苦肉の策という敗北主義的な理解に留まる。「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」とシュワイツァーは問う。イエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。モーセ律法と福音のあいだの緊張関係、断絶が強調されるが、山上の説教を語られるイエスご自身は野の百合空の鳥を愛で、天の父の子となることに業と信のあいだに分断を見出すことは出来ない。

 また聖霊論的解釈、断絶解釈においては人間の責任ある自由が全く問われないことになる危惧が生じる。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。

3山上の説教の文脈に留まる解釈の提案―三つの解釈に抗して―

 われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う(Rom.8:9への注解)。その意味で信じることの内容からして、今・ここで信じるさい、聖霊が共に呻きをもって執成してい給うという信は正しい。シュニーヴィントは信じることは信じせしめられることだというルター主義的な信仰理解を展開しており、働き(エルゴン)上正しい。

 それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのではないかが問われよう。全体論や分断論のような過剰解釈を避けるとき、残されるのは律法主義的解釈かということになるが、それは信仰への招きがある限り、やはり木の良さの議論から展開されねばならない。

3:1カトリックとプロテスタントの和解

 これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。パウロはカトリックもプロテスタント双方とも言わば半分づつ正しいことを「言葉と働きを通じて」(Rom.15:18)既に明らかにしていた。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)として、神の前とひとの前を理論(ロゴス)上分けて人間中心的に語ることを許容していた。そこでは人間の魂の態勢・実力として有徳性を語ることができる。立派な人間とそうでない人間のいることが当然のこととして認められる。ルター主義的には人間は「蛆虫の詰まった頭陀袋」であるからには、右手で為す善行を左手に知らせないとしたなら、それは神がキリストにあって為し給う奇跡ということになる。他方、働き(エルゴン)上、パウロは「愛を媒介にして働いている信仰が力強い」(Gal.5:6)と語るように、信の根源性故に信じることから愛が生まれるという一本道については明確な主張をなしていた。もちろんイエスご自身「まず神の国とご自身の義を求めよ」と信に招く。そして信仰内容として、今・ここでキリストの十字架にある神の憐み故に神に罪赦され、愛されていることをキリストにあって信じる。理論(ロゴス)と実践(エルゴン)、言葉と行いをこのように分け綜合する限りにおいてカトリックもプロテスタントも力点の相違はあれ正しかったのである。このような事情であるとき、山上の説教の律法主義的解釈は拒絶されねばならない。

3:2山上の説教が語られた文脈

 ナザレのイエスは言葉と行いにおいて山上の説教を成就すべく信の従順を十字架まで貫かれた。イエスご自身は旧約の伝統のなかに留まったが、新しい葡萄酒であったために、古い革袋を期せずして破ってしまった。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。イエスは自ら神の子であることの信のもとに山上の説教を身をもって成就した。新約においては仲保者、和解の執り成し手がいますがゆえに、旧約におけるように直接的な人間の側からの罪と償いの犠牲の交換の提供は、愛のもとでの仲保者を介した間接的な和解となる。しかもそれは神の右の座にいます仲保者故に永続的な和解であり、もはやいかなる犠牲や献げものの要はなくなった。

 イエスご自身はこの信の従順を成し遂げる途上において山上の説教を語られた。この現場性、途上性を忘れてはならない。もし十字架から降りてきてしまったなら、神はナザレのイエスにおいて信の従順を完遂したとは看做さず、信の律法の媒介者とはされなかったかもしれない。そのような緊張のなかでイエスは一挙手一投足を歴史に刻んでいた。

 聖書は信(信仰)と義(正義・公正なさばき)と愛(憐み)を最も大切な魂の在り様として捉えている。イエスは旧約聖書に基づき父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。彼は言う、「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばき(正義)そして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。神ご自身が信であり、正義であり愛でありたまうことに基づき、これらの三つが神の意志として最も重要であると語られている。

 イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においては直接まみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして義と愛の両立に向かった。「まず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)。山上の説教の純化された道徳を遂行する手前で、まず神を仰ぎ御国と神との正しい関係を求めることが「まず」第一になすべきこととして語られている。自らの道徳的状態の自省ではなく、神を仰ぎ見ること、即ち信じることが最も大切なことであるとされる。これによりパリサイ人の義に優る義をえることができ、敵をも愛することができるようになると、山上の説教は展開されている。

 パウロも愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その義と愛、正義と憐みの両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。

 

4 究極の道徳と究極の救いの確かさ

 われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。

 山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

 良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。

 イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。

 自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。

 これを山上の説教の「十字架の道の途上の解釈」と呼ぶ。これは何らか他の三つ、律法主義的解釈、聖霊論的解釈そして審判から福音への断絶的解釈を乗り越える言葉と行いの包括的な理解であると思われる。

7結論 

 クリスマス。神の愛のあらわれであり唯一の人類の希望の光であるキリストの誕生を感謝し賛美する。キリストがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩まれた。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。

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良い木は良い実をむすぶ その四

良い木は良い実をむすぶ その四

   2022年12月11日

 [アドヴェント(待降節)の日々です。今週は先週の続きで「良い木は良い実を結ぶ」のその4です。録音は5節までです]。

聖書

 「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサス(ハアザミ)から葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。

 「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。

 かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。

 イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。

1心に常に鳴り響く山上の説教

 あらためてこの山上の説教をしめくくるこの箇所の厳しさを思う。山上の説教に立ち帰るたびに、自らの心の奥に宿る良心が喚(よ)び覚まされる。到底天国に入ることはできないと思う。子供のころ材木屋であった我が家では建築資材に囲まれて育った。母親から「土台はしっかり建てましょう」と語られたことを思い出す。自分が建築する人生という家は嵐にあっても倒れない固い岩盤の上に建てられるものであろうかと自問したことを思い出す。まがりなりにも70年近く生きてきたが、戦々恐々薄氷踏むがごとき日々はかわらない。人間的には何らかの態勢を培ったとは言えるかもしれないが、自分の心魂のなかには救いはないという感じはかわらない。キリストを仰ぐ。

ナザレのイエスは生前に公生涯3年の始めのころにこの説教を丘の上で多くの群衆に向かって風に乗せてシャウトしたのであろう。少人数に静かに語ったこともあろう。この究極の道徳を人類の誰かが語ったということ、そしてそのひとはその言葉を偽りなく生き抜いたということ、そのことのゆえに人類にまた自らに絶望しない。ひとを傷つけ、争いあいながらも、あらためて立ち上がり、彼についていこうと思う。山上の説教のメッセージは、明確に誰であれ、愛しているなら、敵をも愛しているなら、そのひとは正しい信仰のもとにいるということであった。正しい信なしに愛を実現することはできない。良い木は良い実を結ぶ。良い信仰は良い愛を結ぶ。これがイエスの生涯において遂行されたことであった。

 山上の説教を割り引かずに聞くこと、そのとき、われらの心には何が生じるのか。偽りの感覚だ。良心は共知である限り、イエスと共に人間の道徳的であるその本性を知ろうとするとき、胸に手をあてると彼のようにありえない自らの偽りを知る。人類の、学寮の未来を明確に知ることができず偽預言者と同じように自己中心的にバイアスのかかった視点からものごとを見ていることに気付かされる。それでもそのつど判断しながら生きていかねばならない。自らに厳しいひとたちは魂の深いところから考え語り憐みをもってひとびとを導いていることであろう。学寮の若者たちをあずかる者として各自の魂の在り処を正確に知り、しかも憐みをもって、最も必要なときに正しい判断を伝え年長者としての務めをなすことができたなら、どんなに双方にとって楽しく、幸せなことであろうかと思う。いたらない者であることを詫びねばならない。

 それでも彼は招いてくださる。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができるであろう(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 もう一度立ち上がる。木は実によって知られる。果実は結果であり、木はその原因、元である。日曜の話においては常に心魂(こころ)における信の根源性に注目してきた。あらゆる良き行い、果実の基礎に何らかの良きものに対する信が不可欠であることを毎回の聖書講義で確認してきた。種蒔きの譬えにおいて、イエスは茨や荒れ地に蒔かれた種との比較において、良き地に落ちた種は五十倍、百倍の実りをもたらすと語った。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(Mac.4:20)。主観的にはどんなに自らの成育環境が殺伐とし、不毛に思えても、自らが良き土地、環境、バックグラウンド、背景のもとに蒔かれたことを信じることなしに、成長し豊かな人生をもたらすことはできない。

 神に愛されていると信じる者はナザレのイエスと同じホモサピエンスであるその力能に感謝しつつ、自らの力能を発揮させる。われらに与えられたすべての力能は愛に収斂する。われらは親を選べず、この人生を始める。愛するためにわれらは生まれてきた。愛に至る途上にあって、様々な苦難も人生の与件も自らには必要であったと信じることなしに、肯定的、創造的な生は生まれてこない。何かを要求するのではなく、自ら信じていることがら、信の内容が真実であることを証すなわち証明しようとする。そしてその証明の過程で果実を吟味して、そこに何か問題があれば、フィードバックによりその根である信の内容、理解に修正が加えられることになるであろう。木は実によって知られる。人生は木と実の間の往復、吟味により、よりよいものになっていく。

 このように語ってきた。神の愛を信じる者はイエスの軛につながれ歩む。彼の歩調にあわせて共に歩むこと。いつも彼の柔和と謙遜を確認しつつ歩むこと。そのとき良い果実が生み出されていくと信じる。その信に立ち帰ることが人生となる。

2心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―

 山上の説教においては、イエスはモーセ律法が与えられたことを誇る伝統的なユダヤ人の立場に身を置き、基本的に道徳的次元に留まっている。端的に木は実によって知られると言われる。他方、端的に「まず」と、良い木となることを求めるよう教え、道徳はその果実であると、不可逆的な、変えることのできない順序を確認している。「まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招く、「信仰」という言葉は用いられないが。この順序を確認しつつ、イエスはユダヤ人の伝統的立場に身をおき、モーセ律法、道徳の極限を示しつつ、道徳の究極は愛によって満たされることを告げ知らせている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝にどんな報いがあろうか」(Mat.5:43-45)。

 厳しい戒めである。殺され、インフラが破壊され、電気も水もないウクライナ人にプーチンを愛せよと言われる。あまりに厳しい教えのように思われる。山上の説教は「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」と結ばれていた。良い行いを結ばない者は火で焼かれてしまうと語られる。

 信仰こそが良い働きを生むことは「求めよ、そうすれば与えられる」(Mat.7:7)から導かれるはずである。神を求めること、神を信じたいと思うことと信じることは同時であるそのような心魂の根源的な行為であった。他方愛したいと思うことと実際愛すること、良い働きのあいだには様々な葛藤や障害が待ち受けており同時であることは難しい。この時間の流れの不可逆性のなかで、信じることから次第に愛がうまれてくる。先週ウルリヒ・ルツによる良い働きを生む者を「キリストは助ける」という解釈を吟味した。ルツが「「イエスは[神による]自分の派遣使命において律法と預言者[であること]を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る方である」と語るとき、この可能性はわれらの信に基づく義と義の果実である愛に至る可能性のことであると理解した。ルツは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである」と語るとき、この可能性を正しく理解していない。「可能性」とは神の前の可能性なのかが問われる。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が神の前とひとの前の相互を媒介する働きである限り、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は実質的には聖霊の助けのもとに神の国を一挙手一投足において運び伝達していた。神の前では良い木と悪い木は、さには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでルツが言う「可能性」とはわれらの可能性、良い実を結ぶ善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない(e.g.Luk.13:3,Mac.6:12,John.8:11)。悔い改め幼子の信に立ち帰ることがまず求められている。ルツは信の可能性、力能と信から愛への不可逆性を捉え損ねた(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。

 かくして、ひとの前のことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理[心の内側の良心に陰りがないことが重要と考える立場]も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえないはずである。イエスは、ご自身の信の生涯において、心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが「可能性」そのものが恩恵により備えられてきたことを否定することはないであろう。彼は野の百合空の鳥を見るよう招く。「空の鳥をよく見よ、種も蒔かず、借り入れもせず、藏に収めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる」(Mat.6:26)。まず神の愛を信じるよう、イエスは招きたまう。そのように、イエスはわれらが良い木であると信じるよう招きたまう。神の愛のなかで、信仰が成立するからである。信じるとは今・ここで神に愛されていることを信じることである。

3 ユリウス・シュニーヴィントによる「全体的人間」の解釈

 立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、ルツのような主張はなされない。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実も良いか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか]、Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれわれにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。

 すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、「新しい心」をもったひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。歴史のなかにあり時間の過去から現在そして未来に流れていくその経過を考慮するとき、信なしには愛は生まれないが、木とその果実、信と愛を全体に言わば無時間的に、神の前のことがらとして考察するよう促す。全体的人間においては心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理[行為にあらわれる結果が重要という説]ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「聖霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、「新しい心が新しい行為を生む」この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体との分裂なき行為の産出がめざされる。

 これはルター主義的解釈である。信じることは信じせしめられることであり、常に聖霊の媒介があると言う立場である。パウロはエルゴン(働き)上同意するであろうが、ロゴス上神の前とひとの前を分けることもあり、ロゴス上聖霊の媒介への言及なしに「神の知恵」(1Cor.2:7)を語り、「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)人間中心的に語ることもある。

4 ルター的解決に対するエドワルド・シュワイツァーにおける道徳的次元に留まる解釈

 常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対するここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。

 ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。

 ルターにとって信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う(Rom.8:9への注解)。

 それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのではないかが問われよう。

 E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。

5 カトリックとプロテスタントの和解

 その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体であり、相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残している。このアリストテレス哲学に対応する人間中心的にひとの心魂の有徳性を語ることができるとするカトリックの立場に対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」(Rom.6:19)への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、ルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じる内容に含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。

 カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。

6山上の説教が語られたリアルタイムの状況

 われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。

 山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。

 イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。

 自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。

 イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。

 そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊を注がれる救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。

7結論

 待降節(アドヴェント)を迎えている。キリストの誕生は神のわれらに対する愛に他ならない。感謝し賛美したい。キリストがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩まれた。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。

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良い木は良い実をむすぶ その三

良い木は良い実をむすぶ その三

   2022年12月4日

 [本日の録音は3.1まで]。

 先週は岡崎新太郎先生をお迎えし、お話いただいた。先々週「良い木は良い実を結ぶ」のその2で一旦中断し、わたしは目覚めている僕の話を前講として行った。今週はあらためて木は実によって知られるの続きを考察したい。

聖書

 「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサス(ハアザミ)から葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。

 「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。

 かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。

 イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。

 木は実によって知られる。果実は結果であり、木はその原因、元である。心魂(こころ)における信の根源性に注目してきた。あらゆる良き行い、果実の基礎に何らかの良きものに対する信が不可欠であることを毎回の聖書講義で確認してきた。種蒔きの譬えにおいて、イエスは茨や荒れ地に蒔かれた種との比較において、良き地に落ちた種は五十倍、百倍の実りをもたらすと語った。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(Mac.4:20)。主観的にはどんなに自らの成育環境が殺伐とし、不毛に思えても、自らが良き土地、環境、バックグラウンド、背景のもとに蒔かれたことを信じることなしに、成長し豊かな人生をもたらすことはできない。

 否定的に思われる環境も、今、この人生の救いの喜びに至っていることに或いは将来良き実を結ぶために必要であった、必要であるであろうという信が不可欠となる。信じる者の究極のオプティミズム(楽観主義)と言える。信は神の愛をどこまでも疑わないことである以上、そのように形容されるであろう。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」 (Rom.4:4-8)。さらにパウロは言う、「われらは知っている、神を愛する者たちには、計画に即して召された者たちにはあらゆることが善きことへと協働することを。なぜなら、ご自身は予め知っていた者たちを、御子自身が多くの兄弟のなかの長子となるべく、ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められたからである」(Rom.8:28-29)。永遠の現在に生きたまう神の前では一切が明らかである。われらはその神により予め選ばれ、招かれていることを信じて、われらが愛と知識においてまたあらゆる感覚において満ち溢れ、人生における重要度の諸差異を識別するに至る。神に愛されていると信じる者はナザレのイエスと同じホモサピエンスであるその力能に感謝しつつ、自らの力能を発揮させる。われらに与えられたすべての力能は愛に収斂する。われらは親を選べず、この人生を始める。愛するためにわれらは生まれてきた。愛に至る途上にあって、様々な苦難も人生の与件も自らには必要であったと信じることなしに、肯定的、創造的な生は生まれてこない。何かを要求するのではなく、自ら信じていることがら、信の内容が真実であることを証すなわち証明しようとする。そしてその証明の過程で果実を吟味して、そこに何か問題があれば、フィードバックによりその根である信の内容、理解に修正が加えられることになるであろう。木は実によって知られる。人生は木と実の間の往復、吟味により、よりよいものになっていく。

2愛は信によってしか生まれないである。

 聖書の使信(メッセージ)ははっきりしている。愛は信に立ち帰ることからしか生まれないと。信じるとは今・ここで神にイエス・キリストにおいて愛されていると信じることである。神の愛はわれら各人にイエス・キリストのあの生涯において明確に知らされている、このことを幼子のように受け止めることが信仰である。神は旧約聖書に報告されているアブラハムなどに対する約束に信実であった。その信実が正しいものであったことは、御子の派遣という愛により証されている。信に基づく正義、そしてその「正義の果実」(Phil.1:11)として愛が生まれる。パウロは言う、「汝らの中で善き業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると確信している。・・わたしが、キリスト・イエスの憐みの中で汝らすべてにどれほど心を燃やしているかは神が証人でありたまう。わたしは祈る、汝らの愛、知識においてまたあらゆる感覚においてますます満ち溢れ、汝らが[重要度の]諸差異を識別するに至ることを、それはキリストの日までに、神の栄光と賛美にいたるイエス・キリストを介した義の果実(karpon dikaiosunēs)を満たしてしまっていることによって、汝らが染みなく、咎めなき者となるためである」(Phil.1:6-11)。神が歴史を導いてくださると幼子のように信じる。残りの者たちはキリストが新しい天と地をはじめるべく再びこられる再臨のときまでに、キリストを介した神の義の果実を満たしてしまっていること、それが人生の目標となる。

 パウロはキリストと共なる生が人間にとって本来的であることを理論的に伝え、そしてそれを今・ここで生きる。神に嘉みされる心魂の根源に生起する「信にもとづかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:22)。そして「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)からには、新しい生においては信に基づき具体的に愛の道を歩むことだけが残されている。愛が「霊の果実」(Gal.5:22)、「義の果実」(phil.1:11,Heb.12:11)であるからには、「愛は決して失敗しない」(1Cor.13:8)。「愛には恐れがない。まったき愛は恐れを取り除く」(1John.4:18)。信に基づき愛への道を歩む限りにおいて「イエス・キリストにある生命の霊」(Rom.8:2)が共にいますことであろう。

3心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―

 山上の説教においては、イエスはモーセ律法が与えられたことを誇る伝統的なユダヤ人の立場に身を置き、基本的に道徳的次元に留まっている。端的に木は実によって知られると言われる。他方、端的に「まず」と、良い木となることを求めるよう教え、道徳はその果実であると、不可逆的な、変えることのできない順序を確認している。「まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招く、「信仰」という言葉は用いられないが。この順序を確認しつつ、イエスはユダヤ人の伝統的立場に身をおき、モーセ律法、道徳の極限を示しつつ、道徳の究極は愛によって満たされることを告げ知らせている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝にどんな報いがあろうか」(Mat.5:43-45)。

厳しい戒めである。殺され、インフラが破壊され、電気も水もないウクライナ人にプーチンを愛せよと言われる。あまりに厳しい教えのように思われる。ここでのこの教えに対するチャレンジは救いとは悪い者が悪い者でありながら、罪深い者が罪深い者であるままに、恩恵のみにて罪赦されキリストの義を着て神に義人と看做されることなのではないかというものである。もし、道徳的次元を離れた宗教的主張が偽りであり、溺れる者藁をもつかむたぐいのものであるとするなら、もはや道徳的破産者には絶望に沈むことだけが残されている。古来、信仰義認論であれ悪人正機説であれ、慈悲や恩恵に藁をもつかむ思いですがってきたのではなかったのか。「義人というのはおのれの罪があまりに深く、どれだけ深いか知りえないことを知っている人間である」(ルター)や「罪悪深重、煩悩熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし・・法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(親鸞)が語られ、人々を導いてきた。良い木が良い実をならすよう方向づけられているように、良い信仰が愛を生み出すよう方向づけられていることは道理あるが、信に基づいて神は罪赦し、義とすると伝えられているなかで、そこにいたらない信仰はどのようなものとして理解されるのかが問われる。

3.1 ウルリヒ・ルツによる良い働きを生む者を「キリストは助ける」という解釈

 或る注解者は、恩恵は山上の説教において展開される「彼の言葉を行う者」に注がれるのであり、イエスは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない」と明言する。U.ルツは言う。「イエスは[神による]自分の派遣使命において律法と預言者[であること]を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る方である。[「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」]。「わが言葉」というのは、このキリスト論的基礎をはっきりと堅持している。しかし、キリストは決して退却の可能性ではなく、「火の中を潜り抜けて来た者のように」(1Cor.3:15)ではあれ、必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである。キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える。自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。

 この強い主張に対しては、「義の道を歩む可能性を贈る方」としてのイエスご自身に対する理解が問われよう。確かに、どんな厳しい状況にあってもキリストは「退却の可能性」を示すことはない。信から愛の一本道が示されており、イエス自身まっすぐ十字架の道を歩みぬいた。イエスは「義の道を歩む可能性を贈る方」と語られているが、ここで「可能性」とは神の前の可能性なのかが問われる。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が神の前とひとの前の相互を媒介する働きである限り、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は実質的には聖霊の助けのもとに神の国を一挙手一投足において運び伝達していた。神の前では良い木と悪い木は、さには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでルツが言う「可能性」とはわれらの可能性、良い実を結ぶ善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない(e.g.Luk.13:3,Mac.6:12,John.8:11)。悔い改め幼子の信に立ち帰ることがまず求められている。

 かくして、ひとの前のことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理[心の内側の良心に陰りがないことが重要と考える立場]も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえないはずである。イエスは、ご自身の信の生涯において、心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが「可能性」そのものが恩恵により備えられてきたことを否定することはないであろう。彼は野の百合空の鳥を見るよう招く。「空の鳥をよく見よ、種も蒔かず、借り入れもせず、藏に収めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる」(Mat.6:26)。まず神の愛を信じるよう、イエスは招きたまう。そのように、イエスはわれらが良い木であると信じるよう招きたまう。神の愛のなかで、信仰が成立するからである。信じるとは今・ここで神に愛されていることを信じることである。

3.2 ユリウス・シュニーヴィントによる「全体的人間」の解釈

 立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、ルツのような主張はなされない。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実もよいか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか]、Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれわれにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。

 すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、「新しい心」をもったひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。歴史のなかにあり時間の過去から現在そして未来に流れていくその経過を考慮するとき、信なしには愛は生まれないが、木とその果実、信と愛を全体に言わば無時間的に、神の前のことがらとして考察するよう促す。全体的人間においては心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理[行為にあらわれる結果が重要という説]ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「聖霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、「新しい心が新しい行為を生む」この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体との分裂なき行為の産出がめざされる。

 これはルター主義的解釈である。信じることは信じせしめられることであり、常に聖霊の媒介があると言う立場である。パウロはエルゴン(働き)上同意するであろうが、ロゴス上神の前とひとの前を分けることもあり、ロゴス上聖霊の媒介への言及なしに「神の知恵」(1Cor.2:7)を語り、「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)人間中心的に語ることもある。

3.3 ルター的解決に対するエドワルド・シュワイツァーにおける道徳的次元に留まる解釈

 常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対するここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。

 ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。

 ルターにとって信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。

 それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのでないかが問われよう。

 E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。

4 カトリックとプロテスタントの和解

 その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体として相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残している。このアリストテレス哲学に対応する人間中心的にひとの心魂の有徳性を語ることができるとするカトリックの立場に対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」(Rom.6:19)への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、先述したルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じる内容に含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。

 カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。

5山上の説教が語られたリアルタイムの状況

 われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。

 山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

 良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。

 イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。

 自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。

 イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。

 そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊を注がれる救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。

6結論

 待降節(アドヴェント)を迎えている。キリストの誕生は神のわれらに対する愛に他ならない。感謝し賛美したい。キリストがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩まれた。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。

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