春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十九

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十九

 録音においては、山上の説教を福音として読むことができることによって、いかにイエスとパウロが連続的なものとして捉えることができるかを語っています。「裁き」と「識別」の行為がいかなるものであるか、光の倫理学のシミュレーションのもとに語っています。 2024年3月13日

第四章 山上の説教の倫理学と信による秩序づけ

四・一 善悪因果応報の倫理的教説

黄金律におけるひたすらなる善意の行為原則

 イエスの教えから倫理学を引き出すとすることができるとすれば、それは一切が明らかなところでは、ひとはいかなる法則性のもとに行為を遂行するかそしてその実践的効力をどこに求めているかを明らかにすることである。神の前にも人の前にも普遍妥当する法則があるとすれば、その連続性を保障するものでなければならない。神も同意し人も同意する法則とは光がもたらす透明性が持つ普遍的妥当性ということになろう。これまでの論述は倫理学の第一の特徴である態勢と行為の平行関係は跳ね返りの法則において確認されている。また倫理学の第二の特徴であるロゴスとエルゴンの相補性、認知的徳と人格的徳の共軛も不可欠な前提となる。イエスの天の父はまさにそのような神であったことをこれまで論じたので、これに関しても倫理学の要件を満たしていると言える。第三の特徴である幸福が神的なものに開かれていることは八福で確認した。従って、イエスの福音の宣教における自己言及性とひとのそれへの信による応答を一時的に括弧にいれる限りにおいて、倫理的教説として特徴づけることができまた対話可能なものとなろう。

 憐みの連続性と悪さの不連続性はそれぞれ交差しない形で果実をもたらすことをこれまで確認してきた。律法の純化、先鋭化の試みは善悪因果応報の枠のなかでまとめられている一つの倫理的教説であると言ってよい。神の業の律法における意志・み旨は倫理学的には善悪因果応報の法則のもとに知らされている。イエスはそこから行為の一般原則を導出する。「かくして、君たちは人々が君たちに為してくれるよう欲するならば、そのかぎりのものごとすべてを君たちも彼らにそのように為せ。というのもこれが律法でありまた預言者たちだからである」(Mat.5:12)。ここで「黄金律」と呼ばれる愛敵に至る隣人愛への命令がモーセ律法と預言者が目指していたものに他ならないとされている。この表現は「レビ記」にある隣人愛の命令「汝は汝の隣人を、汝が汝自身を愛するように、愛するであろう」(Lev. 19:18, Gal.5:14)よりも一般的な表現である。これは山上の説教全体に言えることであり、イエスは「罪」や「信仰」そして「悔い改め」等の宗教用語は用いない傾向にあり、その代わりに「過ち」や「求めよ」そして「仲直りせよ」のような表現が用いられている。聴衆たちにわかりやすい日常語を選んだ、或いは道徳的次元を明確にするためであると言える。人々にしてもらいたいことはよくしてくれること、赦してくれること、愛してくれること、なにかそのようなものごとであり、それを先ず君から実行せよという命令である。

 イエスはこの「黄金律」において、聖書の律法と預言者たちは愛することに集中していたことを伝えている。これは神の憐みの先行性を人間同士の交わりに移行させる命令である。まず自分から善意を行動で示そうと励まされる。行為主体の善意の先行性が、善き跳ね返りの生起する必要不可欠な要素である。神がわれらの信による応答を待っているように、人間同士の交わりにおいても善行の先行性が信頼関係を生み、豊かな応答の好循環が生起する。黄金律は善き行為の始点たれという励ましである。他方、疑心暗鬼による負のスパイラルは恐れに起因することが多い。喧嘩や戦争の報復合戦、応酬は対人間の否定的な反射性の好事例である。「愛は恐れを取り除く」という仕方で善意によって、負の螺旋下降をブロックする黄金律は合理的なものとして支持されよう(1John.4:18)。

 ただし、黄金律は神の憐みの先行性とそれへの信なしには人間中心的な功利主義的にも捉えられがちであろうが、これも認知的なものと人格的なものの共軛によりブロックすることができる。光の透明性の倫理学において次世代AIであれ一切を正確に知り審判する叡知体を想定することは、認知的次元だけではなく人格的次元をも要求せずには双方の共軛が成立せず、限りなく人格的神の要請に近づくことになる。

 憐みの悪人の交差なき善悪因果応報の法則性の根拠は一切を知る天の父が公平に審判することに見られる。「もし君たちが人々に彼らの過ちを赦すなら、君たちの天の父も君たちにも赦すであろう」(6:14)。「裁くな、裁かれないためである」(7:1)。まず、君自身からしてもらいたいと望んでいるものごとを、人々に行使せよと命じられる。愛敵にまで純化された善悪因果応報が妥当する限り、黄金律は信じる者にも信じない者にも普遍的に妥当する道徳法則となる。

 イエスはモーセ律法の純化により自己への厳格な適用と隣人への寛大な憐みの適用こそ神のみ旨であると言う。愛敵即無抵抗即ち「悪人には手向かうな」(5:39)などの厳しい教えの自己への適用において自らの偽りが暴かれるが、悔い改めの信により克服し隣人愛に向かう。他方、隣人への対応において「裁くな」、「赦せ」と端的な憐みが命じられる。ルカの平野の説教において神の憐み深さは量り枡の譬えに見られる。「君たちの天の父が憐み深くあるように、憐み深くあれ。君たちはひとを裁くな、そして裁かれないであろう。ひとを咎めるな、そして咎められないであろう。赦してやれ、そして赦されるであろう。与えよ、そして君たちにも与えられるであろう。人々は [穀物を]押込み、揺すり込み、溢れている良い量り(metron kalon)を君たちの懐に入れてくれることだろう。というのも君たちが量るその量りで君たちに量り返されるからである」(Luk.6:36-38)。隣人への憐みは神の憐みにより基礎づけられ、イエスのその実践的効力ある行為原則は信である。光の倫理学においては善悪因果応報への信が機能する。

 イエスは裁くなという命令の理由に「君が量るその量りにより量り返されるからである」と言う。これは善悪因果応報に基づく跳ね返りの法則の一般的表現であり、憐みを量りにすれば、神から憐みをかけられる。正義を量りにするならば、神から正義によって量られる。キリストを量りにするなら、キリストによって量られる。従って、先行行為主体が行為を選択するその領域において、応答を受け取る、仕返しをされるということである。「悪行の報いは悪行そのものである」(アウグスティヌス)或いは悪人は「自ら掘った穴に陥る」(Ps.7:15)と語られるように、悪の行為選択はまさにその心的態勢さらにその実害において罰を受けている(cf.Rom.1:18-32)。イエスの厳しい現実認識によれば、否定的な言葉や内面の悪意でさえ滅びに定められている。殺人をめぐる先鋭化においては「しかし、わたしは言う、「自分のきょうだいに怒る者はすべて審きに服するであろう」。誰であれきょうだいに「馬鹿」と言う者は法廷に服するであろう、「鈍重」と言う者は、地獄(ゲヘナ)の火に服するであろう」(5:22)。またこう言われる、「かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」(7:24)。実践を伴わない者はものごとがよく見えていない愚か者であり、最悪滅びに定められる。業に応じた公正な審判がくだされる。

 悪を抑止する業の律法のもとでは正しいしかし相対的な審判が遂行され、働きに応じて相応しい果実を得ることになるであろう。「目には目を」の業の律法のモーセに対する啓示は相対的な跳ね返りの法則の啓示であったと言うことができよう。光の透明性の倫理学においては、集積したデータのなかではイエスの審判は最も厳しいものと判定するであろう。しかし、神の完全性、天国の律法の法則を知っていれば、同意するであろう、そのようなことがらである。一切が明らかなところでは、憎悪も実際の殺人も同罪とされる文脈はありうる。後に実際殺人することも見抜いていようし、憎悪により多くの悪を周囲にまき散らすことも計測されるであろう。倫理的教説として、いずれが優れているかを論じる段になると、やはり一切を知っていることそして人格との共軛が成立していることが、鍵となるであろう。そのなかにあって、肯定的な黄金律を実践に移すことには同意が成立しよう、その普遍妥当する法則性への信のもとに。

 

四・二 裁きから愛の識別へ 

 イエスは自らを優越した位置におく「裁く」ことは神のみ旨でないと言う。それは愛を説く黄金律にも反する。それは最初の人間が「善悪を知る」木の実を食べて以来、人間が神に背き生の主人公となっている象徴として挙げることができよう。「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも君たちが裁くその裁きにおいて君たちは裁き返され、君たちが量るその量りにおいて君たちにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。或いはどうしてきょうだいに向かって「君の目から塵を取らせてくれ」と言うのか、見よ、自分の目に梁があるではないか。偽善者、まず自分の目から梁を取り除け、そのとき君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになるであろう。神聖なものを犬にやってはいけない、君たちの真珠を豚に投げてやってはいけない[むしろ飼料を与えよ]、豚たちがそれらを脚で踏みつけ、向き直って君たちに突進してくることのないように(7:1-6)。

 ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、義人と罪人を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(25:31-33)。ひとは神の位置或いは一切が透明である叡知体の位置を占めえない。貪欲や優越感はその跳ね返りを報いとして受ける。パウロは途上の人間が「罪に定める(katakrinein)」時、それは自らに跳ね返ると言う。「すべて裁いている君、ひとよ、君には弁解の余地がない。なぜなら、君は他人を裁くそのことがらにおいて、君自身を罪に定めているからである。というのも、君、裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ「業の律法」のもとにあり、赦しではなく優越者として罪に定めあっている。「裁くな」においてイエスはモーセの業のそれ自身における律法の適用の否定にまで至っている。これは神において信の律法による業の律法の乗り越えを意味していよう(cf.Rom.7:4,8:2,Gal.2:19「[信の]律法により[業の]律法に死んだ」)。透明な倫理学においては、裁きにより優越を示す悪しき動機付けはその悪しき果実を得ると端的に語られる。

 「裁き」が「梁」や「塵」等様々なレヴェルで遂行されているように、誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する規準として、ひとは普遍的に何等かの量りを持つ。ここでは「裁き」と異なる「識別すること(dokimazein)」(cf.Rom.14:22)の重要性が説かれ、「君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになる」そのような愛が両者を識別、判別する。豚には真珠ではなくトウモロコシを与えることが最善の行為選択肢である。ひとは誰もが自らの認識規準のもとでひとや出来事を識別、判断せざるをえないが、それは神のみ旨に即して憐みを規準にして遂行せよと命じられる。そのとき、ひとの目から塵を取ってやることができ、歴史に肯定的なものを遺すことになる。パウロも言う、「祝福されている、自ら識別するものごとにおいて、自らを審判しない者」(Rom.14:22)。この意味で黄金律は司法制度を前提にしている従来の人間中心的な倫理学に一つのレッスンを与えているとも言えよう。

 愛は信義の果実である。神の愛への信に基づき罪赦され、その義の証は愛しうることに見られるがゆえに、歯を食いしばって敵をも愛する。キリストはわれらが滅びを望むそのひとのために死んだのである(Rom.14:15)。キリストは自らの敵のために死んだことにより、罪とその値である死を滅ぼした(Rom.8:1-3)。ここに信から義から愛への一本道が見いだされる。その信頼とは敵もキリストにあって神に愛されていることの信である。神の愛の先行性が恐れに基づく負のスパイラルをブロックする (Rom.12:14-21)。一切を正確に知りしかも憐み深く公正な神への信が悪に対して善によって打ち勝つことを可能にする。これがイエスの神のもとでの倫理学の実践的効力である。この信の実践的効力に対応するものは人間中心的な倫理学においてはやはり交差なき因果応報を肝に銘じることであろう。カントの道徳法則の普遍妥当性に基づく断言命令もこれに基礎づけられる。先に幸福が自らの力能のうちにないことを確認したが、やはり、倫理学は信に開かれていると思われる。人格なき普遍妥当する法則はどれだけの実践的効力を持つか、山上の説教の側から問われよう。

 

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