春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一(最終回)

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一回(最終回)

録音においては、この講義の背景にあるものまた今後の計画などを話しながら結論をお読みしました。最終回ですので、祈りました。よい春をお迎えください。2024年3月16日

結論

 ひとは問われている。善悪因果応報の法則を信じるか。それならば善いリターンを得るべく、黄金律のもとに生きよう。これは道徳的次元のみにおいて語りうる実践的効力の教えである。しかし、山上の説教においては、善悪因果応報を無視したと思われる無償の「贈りもの」が「善人にも悪人にも」差し出されている。それが神の憐みであり、その極は御子の十字架と復活である。この福音は自己完結的であり、ただその差し出しの前にひとは立ち、その恩恵の外に立つことはできない。神の前の出来事は自己完結的であり、ひとの前の出来事は譲歩された相対的な自律性においてあり、端的な自律性においてないからである。神の前に憩うまで、ひとの良心は宥めをえず、信によってしか理解できないこととして何よりも恩恵はわれらが汚すことのできない一切を支える根底的な場所において明白に立てられたからである。山上の説教はそれを自然事象そして人間事象を介して教える。「聞く耳ある者は聞け」。

 生命にいたる狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。そのひとは永遠の生命のうちに神の右の座にいて或いは各人の心魂の根底において聖霊として神の意に「即して」執成している(Rom.8:27)。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる(Gal.2:20)。数百ある律法は「律法の冠」である「愛」に収斂されている(Rom.13:10)。イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」(5:18)その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,2:40)。愛は信の律法に転換されている。「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)。イエスは野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証である復活の生命を介して、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。そこでは「信の律法」により最も純化されたモーセの「業の律法」が秩序づけられたと言うことができる。

 ひとはすべてキリストを介して、無償で贈りものとして神からの正義を受け取る者とされた。善から善、悪から悪への因果応報の法則は父と御子の協同行為によりわれらの心魂の根底において一旦断ち切られている。パウロは福音の自己完結性を伝え、神の二つの意志である業の律法と信の律法がいかに秩序づけられるかを述べている。父と子の協同作業は自己完結的であることが、神自身の即ち神の前の事実として自己言及において報告されている。神のみ旨はパウロによりこう報告されている。「われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである。

 しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるすべての者に明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」(Rom.3:19-26)。

 パウロはこの神の前の自己完結的な啓示行為を報告したのちに、それがもたらす人間の心魂の在り方についての認識をこう報告している。「かくして、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。それゆえ、人間は業の律法を離れて信によって義とされるということを、われらは認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を介して無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然からず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:27-31)。

 かくして、山上の説教はもはや審判の言葉としてではなく、希望の言葉として受け止め直される。山上の説教は信から義へ、義から愛への一本道に位置することになるであろう。イエスは福音成就の途上において、しかしリアルタイムの媒介行為を遂行しつつ、山上の説教を語りそれを生きた。パウロはその十字架と復活の視点から福音と律法を秩序づけることができた。かくしてイエスとパウロは狭き真っすぐな道の途上の言葉とその生の成就の視点として調和する。倫理学の主題である「ひとはいかに生きるべきか」の当為「べし」に含意される実践的効力の問は、イエスとパウロにおいては「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)その力強い信の狭い真っすぐな道を歩むことにある。福音において神の愛が与えられているからである。

 ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。聖霊はあの出来事が今ここで生きるわれらの「古き人間」(Rom.6:6)の死、「欲と情と共に肉」(Gal.5:24)の死であり「新しい被造物」(2Cor.5:17)の生であると神が看做していることを心の奥底で呻きをもって執成す。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験しその自覚なしには、また相手方の状況についての知識と識別なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証は、どれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。

 彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から「柔和と低さ」が伝わり、山上の説教を少しずつ生きうるものと「変身させられ」ていくであろう(Rom.12:2)。「憐れむ者は祝福されている。憐れまれるであろうからである。その心によって清らかな者は祝福されている、神を見るであろうからである。平和を造る者は祝福されている、その者たちは神の子と呼ばれるからである」(5:7-8)。彼の軛を担ぎ主と共にペースを合わせ隣を歩みうること、それは端的な「贈りもの」であり、祝福である。

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