春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十五

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十五

録音ではイエスの現場性すなわちユダヤ教の伝統を引き受けながら彼の生命がほとばしりで古い革袋を破る新約の喜びの現場性をつかむことの重要性を語りました。2024年3月9日 

警告

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り信に招く。

 この説教はその道徳性の根拠に「君たちの天の父が完全であるように、君たちは完全であることになろう」が高い理想として掲げられる。それ故に勢い厳しい言葉が連続的に繰り出されている。「もし右手が君を躓かせるなら、切り取って捨ててしまえ、身体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(Mat.5:29-30)。ここで最後の審判における全身の滅びを回避するものとして途上における身体の躓かせる部位の損失が推奨されている。「躓き」は自らないし隣人を転倒させ前進を阻む障害物である。ひとは自らの心魂がいかなる態勢にあるか自覚することは難しいが、光が心の内面を照らすとき、自らの前進をブロックする頑なものの存在に気づくことがある。何らか最後の審判に至る途上の部分的審判を経験するとき、躓きを取り除き或いは方向転換し最後の審判を避ける肯定的な前進に向かう。そのとき懐疑は喜ばしい探求に代わる。肉を抱える限り、再び躓き懐疑に襲われても、探求の感覚を思い出し再び立ち上がる。

 躓きを置く者は憐みをかける者との対極に位置する。この直截さは憐みの肯定的影響力とその対比にある躓きの否定的影響力が時系列の連続性において交わらない二つの生の原理として地上の生と来世が捉えられていることを示している。交わることのない二つの道がある限り、否定の道から肯定の道への移行はあるとすれば信仰により飛び越えねばならない。これはアブラハムの信仰の先駆に見られるように、「働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」、その信に基づく義は旧新約双方の基礎にある(Rom.4:5)。

 

三・三・三 リアルタイムの説教とリアルタイムの媒介行為

  山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元を正面から引き受けそこに留まっていることに気づく。律法の「一点一画」とも疎かにされない。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるようにアブラハムの子孫たちに信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。「求めよ」は実際に神へのねだりとして信頼を前提にしてはいるが、ことさら「信ぜよ」とは語られない。純化された律法の文字通りの遂行にこそ神のみ旨のあることに、この説教の主眼がおかれている。そのことにより文字通りの先鋭化された律法の遂行は低く見積もられること、軽視されることを拒否している。このことはひとつには旧約の伝統のもとにある聴衆に躓きを与えないように、彼らの立場を正面から引き受けたことを含意しているが、しかし、これは何よりも神がモーセと民に業の律法を与えた時の神のみ旨だからである。十戒は「君たちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(Exod.20:20)。そこでの行為は偶像を拝むー拝まない、姦淫するー姦淫しない、貪るー貪らない等二者択一であり、一方を選択するとき義であり、他方は罪とされ、「わたしを愛し、戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与え」、否む者には「父祖の罪を子孫に三、四代に問う」相応の報いがある。モーセ律法を介して知らされている神のみ旨は罪を犯さないようにする人生の規範、道徳訓である。これらは外的に観察可能な規範である。これは行為選択への加点と減点による裁きであり、その意味で人間にも義と罪は相対的に判別可能なものとなる。

 しかしながら、一点一画とも疎かにされないはずの律法が偽善により汚されてしまっているという現実がある。それ故にイエスは律法遵守の新しい道を示そうとしている。イエスは旧約の枠組みにおいて自らを「預言者」(5:12)として位置付け、天の父の認知的、人格的完全性に基づく憐みを賛美し、愛敵に至る道徳的完全性を命じている。この厳しい律法はイエスの言葉と働き故に新たな光のもとに理解され、何らかの仕方で実現可能なものとされているに相違ない。ナザレのイエスは揺るぎのない仕方で、文字通りのことを意味しつつ、基本的に実行可能なものとして語り、自らそれを生き抜いたことが報告されている。さもなければ、誰も天国に入ることができないのに彼は空しく天の父の子となるよう福音を宣教することになるからであり、また彼は聴衆に不可能なことを要求し苦しめるだけの教えを説くこととなり、彼の偽りのない憐み深い生と相容れない。

彼は自己欺瞞者かが問われる。イエスが遵守不可能なことを要求しひとを苦しめるとすることは、憐み深いイエスを自ら裏切るものである。イエスは旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。この説教を「リアルタイムの説教」と呼ぶ。福音書はイエスのその都度の文脈において彼の語録を伝えるものである限りにおいて、リアルタイムの報告書であると言うことができよう。

 他方、彼は「リアルタイムの媒介行為」とでも言うべき天と地を繋げる働きを今・ここにおいて遂行している。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう」と彼と共にいることに平安があると語っている (Mat.11:28)。これは聖霊の派遣の約束ではない。また彼は「二人または三人がわが名のもとに集まるところ、そこにわたしは彼らのまんなかにいる」(Mat.18:20)と言う。イエスを呼び求める者たちが集まるところ、そこに彼が共にいると語る。これも必ずしも聖霊の派遣と理解する必要はなく、イエスが身体的に共にいると言っていると解する文脈も必ずある。

 これはイエスの(1)自己言及であると言え、神の御子にふさわしい。メシヤの秘密で確認したように、彼は自己認識に変化があったわけではない。「神の子の信」のもとに、一挙手一投足において神の国をその肉において持ち運んでいた、ただし、彼とその現場を共にするものとのあいだに限定されてはいるが。また、「ルカ福音書」にはこうある、「パリサイ人にいつ神の国は到来するのかを尋ねられて、イエスは応えて言った、「神の国はまなざしを向け続けているとやって来るものではない、また「見よ、ここで或いはあそこで」と人々が語ることによって、到来するものでもない。というのも、見よ、神の国は君たちのただなかにあるからである」(Luk.17:20-21)。これも「君たち」と呼びかける生身のイエス自身を神の国と同化させている自己言及である。今・ここにおいてイエスと共にいる者たちは不思議な安息と平安、喜びを経験していた。

 イエスの自覚としては山上の説教の現場でも同様でありリアルタイムの言葉による神のみ旨の伝達そのものがリアルタイムの媒介行為である。彼に言葉と実践の乖離なき権威と力がなければ、あれほどのおびただしい群衆が集まることはなかったであろう。その意味において今・ここで福音は実現し、展開されていると言うことができる。

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