登戸学寮HCDプログラム

2023年ホームカミングデー

日時:2023年11月25日(土)16時~18時

場所:登戸学寮・ オンライン配信

             司会 結城史音


〇16:00挨拶 岸本 尚毅 (OB、理事 寮友会)

〇16:05寮生活動支援報告:

   ・ 川嶋すず菜   ネパールヒマラヤ、アニデッシュチュリ登山隊参加

   ・ 中村真子    京都、大阪日本美術研修

   ・ 牧真人      教会音楽講習会受講(聖歌隊指導法)(羽村市)

マティアス・マイヤーフォーファー・パイプオルガンマスターク ラス受講(長野
市)

                ピアノ演奏

    ・ 結城史音   「きんじょの本棚」の活動

・ 吉野泉     オーストラリア アデレード大学語学研修、アルメニア イェレ
ヴァン周辺 ロシア語研修

〇17:20 卒寮生、お客様スピーチ

 坂内宗男 (OB、元寮長)、大谷恵(理事)、副島茂(OB、前評議員)、

土屋真穂(評議員)

〇朗読劇:

ハンカチ―皇帝ティベリウスの乳母、友ファウスティナ物語― 

(ラーゲルレーヴ原作)

 結城史音(ティベリウス)、中村真子(ファウスティナ)、原島寛之、浜崎航希 
(ナレーター)他

〇讃美歌 537番 わが主のみまえに

〇閉会の祈り  小西 孝蔵 (OB、常務理事)

〇茶話会



 

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今井館ニュース53号2022.7.31

登戸学寮

 枡形山の春は鳥たちの賑やかな囀りで朝を迎えます。4月初め霧雨のなか皆で山の満開の桜を愛で、6月初めに谷の水辺に舞う蛍を愛でました。桜花舞うなか新寮生9人を迎えて、64年の歳月を積んだ一つの方舟が帆を一杯に張り内外の荒海のただなかに滑り出しました。若者たちは新鮮な風を吹き込み、バスケや読書会が盛んになりました。学寮は週日毎朝7時から共に讃美歌を歌い聖書を開き、担当者が該当聖書箇所にコメントを加えつつ自由にスピーチします。パイプオルガン専攻の新寮生が前奏、讃美歌そして後奏を担当し、一同聴き惚れています。寮長は新寮生「依存症」になるほど、彼らは皆律儀に出席し、先輩たちによい模範を示しています。朝起きを「ドロップアウトし損ねた」新寮生たちはこの規律のなか夏休みになだれこむことでしょう。2年間通学の経験のなかった先輩たちは対面授業となり、適応への苦労が垣間見られます。4年生、大学院生はそのなかで内定を頂いています。

 朝礼拝では一昨年創世記からレビ記まで読み、昨年は詩篇150篇を完読しました。今年はマタイを終えヨハネにはいったところです。やはり新約聖書は若い魂によりインパクトを遺す様子が伝わってきます。

 緑濃い梅雨の日々、学寮は山頂までまた蛍谷までいずれも徒歩数分の中腹に構えよい眺望を与えています。この土地は「ゼロ戦パイロットの至宝」と呼ばれ2500時間の空戦を生き抜いた小町定氏とその妻で「パウロの時代に生まれていたならひたすら彼の伝道のお手伝いをしていたことでしょう」と言う黒崎先生愛弟子勝美氏夫妻の寄贈によるものです。昨年秋HCDで寮生たちは朗読劇「登戸学寮誕生物語」を演じました。志ある人々の一本の細い光の道としてほとんど奇跡的に学寮が創設に至ったことを知りました。この緑と鳥たちに囲まれる生活のただなか、その真っすぐな光跡をいつも思い返し、その最先端にいる自覚と感謝と賛美を新たにしています。

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参考:黒崎幸吉賞(趣意書、かがみ文2021年)

 このたび、第二回黒崎幸吉賞のご推薦をいただくべく広く推薦書募集要項と推薦フォームを掲載いたしました。この章の主旨について昨年以下の二つの文章が公にされました。参考までに掲載いたします。奮ってご推薦お願い申し上げます。

趣意書

黒崎幸吉賞 公益財団法人登戸学寮(以下当寮)は創立 60 周年を記念し、「黒崎幸吉賞」を創設し ました。本賞は、当寮の設立者である聖書学者黒崎幸吉(注)のキリスト教に基づく全人 格的教育理念とパイオニア精神にちなみ、その精神に合致する国連の SDGs(持続可 能な開発目標)と歩調を合わせ、未来を拓く活動・研究を奨励することを目的とし、該 当する個人または団体の「地の塩、世の光」の活動を紹介し、感謝と支援の意を表明す るものです。先ずは小さくスタートし、登戸学寮に資する事業に育てていきたいと祈念 しております。 対象:公益財団としての当寮の設立の趣旨に照らし、以下のようなかたを対象とします。 例1 当寮在籍経験者であり、社会活動・学術文化等の分野で活躍しているかた、 または活躍が期待されるかた 例2 当寮の設立の理念を理解し、当寮を支援してこられたかた 授賞式:当寮で行う授賞式のさい、授賞されたかたには記念講演を行っていただきま す。(講演記録は、当寮の機関誌に掲載予定)。 選考方法:他薦による候補の中から、当寮の理事会が選定する選考委員会の推薦に基づき、 当寮の理事会が授賞者を決定します。候補の推薦者は、当寮出身者、寮長・役員経 験者および当寮の設立の趣旨を理解するかたとします。 推薦方法:推薦者は、所定の推薦書(同封・添付または URL https://bit.ly/3sEyJG8 から取得)により、下記宛てに一部郵送、またはメール添付にて推薦してください。 なお、参考資料などは説明を付け、推薦書に同封してください。(書類一式は返却 いたしません。) 推薦書の提出締切:2021 年 9 月 30 日(消印有効) 郵送先: 〒214-0032 川崎市多摩区枡形 6-6-1 登戸学寮寮長 千葉 惠 宛 メールアドレス noborito@gakuryo.or.jp 2021年8月28日 登戸学寮理事長 小島 拓人 (注)黒崎幸吉(1886~1970) 内村鑑三門下の聖書研究者・伝道者。山形県出身。東京帝大卒。 住友本社に 10 年間勤務の後、退職して聖書の研究、執筆、伝道に従事。聖書研究の月刊誌「永遠 の生命」全 423 号(1925-1966 年)を刊行(1937 年思想統制の下で発禁処分を受ける)。 その活動の一環として、1958 年、青年への全人格的教育の目的で公益財団法人登戸学寮を創設。 以上

かがみ文

登戸学寮関係者各位

 コロナ禍の二年目の夏を迎え、皆様におかれましてはお護りのうちにお過ごしのことと 存じます。学寮はおかげさまにて感染を免れており、創設以来のヴィジョンのもと天に登る 扉としての使命を抱きつつ、新天新地をめざし航海を続けております。 このたび、学寮創立 60 周年を契機に、キリストにある一つの体を形成すべく、地の塩、 世の光として活躍している方々に光をあて、「表彰」の名を借りた交わりの機会を設けるこ ととなりました。黒崎先生は『一つの教会』の序において、「最近与えられた啓示は、神学 や教理や組織や礼典等は信仰の中心ではなく、信仰の中心否信仰そのものは『神との交わり』 でなければならないという事であった」と記しています。 神との交わりは、キリストを首とする人々がそれぞれキリストの肢となる交わりに向か います。もし老いが表彰されたなら、若きの寮生活を可能にすべく手を差し伸べ、もし若き が表彰されたなら、老いにその働きを伝え援けることでしょう。こうして一つの体たるべく、 皆さまとの新しい交わりのときが用いられますよう切に願っております。 皆さまにぜひ、良き働きを続けておられる方をご紹介くださいますよう、ここにお願い申 し上げます。趣旨および推薦方法等につきましては、同封/添付の趣意書をご覧ください。 末筆ながら皆様のご健勝とご平安をお祈り申し上げます。 2021 年 8 月 28 日 選考委員会委員長:小島拓人(理事長) 選考委員:鷲見八重子(常務理事)、大谷恵(理事)、岸本尚毅(同)、福嶋美佐子(同)、 織田千尋(顧問)、千葉惠(寮長)、千葉美佐子(職員)、 委員会顧問:黒崎稔(監事) (2021 年 8 月 21 日時点)

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第二回「黒崎幸吉賞」推薦お願い

第二回「黒崎幸吉賞」の候補者推薦をお願いいたします。
推薦者は、当寮出身者、寮長・役員経験者および当寮の設立の趣旨を理解する方とします。 候補者の対象は、当寮の設立の趣旨に照らし次のような方を対象とします。

例1: 当寮在籍経験者であり、社会活動・芸術文化等の分野で活躍している方、または活 躍が期待される方

例2: 当寮の設立の理念を理解し、当寮を支援してこられた方

推薦方法については、所定の推薦書(下記ボタンからダウンロードできます)により、メール添付または登戸学寮 千葉惠寮長宛てに一部送付願います。
参考資料などは説明を付け推薦書に同封してください。(書類一式は返却いたしません。)

締め切り:2022 年 8 月 31 日(消印有効)
問い合せ:
✉ noborito@gakuryo.or.jp
☏ 044-933-0819

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2022年度入寮式が行われました(4月10日)式次第、式辞

2022年度登戸学寮入寮式

式次第

入寮式

  2022年4月10日(日)14:00~

登戸学寮

                         司会 佐々木さら

 

前奏

讃美歌     533番

聖書朗読    詩編100篇

開会の祈り   

挨拶      理事長 小島拓人

来賓祝辞    監事 黒崎稔

歓迎の言葉   Robert Seth Quant

新入寮生スピーチ 

井村咲月、温ハンビッ、川嶋すず菜

小林侑真、曽我大輔、原島寛之、牧真人

     道下朱理、吉野泉

式辞      寮長 千葉惠

讃美歌     531番

閉会の祈り   

後奏

 

記念写真撮影

式辞

                        千葉 惠     2022.4.10

 歓迎 

このたびは大学入学、再入学ならびに登戸学寮入寮まことにおめでとうございます。これまでの努力が報われ新しいステージに立つことができなによりです。新たな展開を願っています。本日のこのおだやかな春の光が皆さんを祝福していますように、わたしども学寮関係者一同も皆さんを祝福しまた心から歓迎します。よかったです。

 この春入寮された若者たちは今何を胸に抱いているのでしょうか。日本の中心である首都圏での新しい生活に対するまたひととの出会いへの期待、そして人生設計における新たな自己の位置づけを見出し、今後の歩みの模索、そのようなことがらに思いを馳せていることでしょう。若者らしくワクワクドキドキする新しい生活の始まりです。将来の日本と世界の行く末、帰趨は若者に託するしかありません。私どもの乗り越えるべき課題を確認し、解決に向かうわたしどもの心の一番基本的な在り方について共に考え歓迎の言葉としたいと思います。

 

 時代の変遷と変らない一人称の責任ある自由(心魂の人格形成)

学寮は1958年の設立ですので、65年目を迎えています。この間、日本も世界も著しい変化を遂げました。とりわけ科学技術ならびに医学の進展には著しいものがあります。当時は、子供たちはトランシーバーという無線通信用具でせいぜい20メートル離れた友達と半分隠れ顔をだしてボタンを押しては話しかけるそのような遊びをしていたのです。今ではスマホが普及して相手が地球の裏側にいても会話ができ、GPSによりどこにいるかわかります。ヒトゲノムが完全に読まれ、生命の設計図が解読されました。iPS細胞により原理的にはあらゆる細胞を作成することができるようになりました。かつては、情報発信者はテレビ局や新聞社など限られた媒体・メディアでしたが、今では誰もが情報を動画でアップすることができます。株式の売買も大量に瞬時に電子的におこなわれ、商取引も店に買いに行かずともできるようになりました。昔平安時代には「平家にあらずば人にあらず」と言われましたが、今では「IT専門家にあらずば人にあらず」と言うことができそうです。またこれは監視社会の息苦しさとともに「隠されているもので顕わにされないものは何もない」という聖書的な人間観がより現実的なものになってきたと言えます。

 このように一方では1と0の情報処理技術は原理的には個人の身体に依拠するところありませんので、個人に依存しない三人称の言語により再現可能かつ検証可能で普遍的な知識が蓄積されていきます。自然科学、医学そして技術の領域における学習内容は著しく進展増大し微視的なナノ空間から宇宙空間に至るまで探求されています。誰もが共有できる定量的で客観的な解明が日々蓄積されていきます。いつの日にか、手足を必要とせず、水溶液のなかに脳がいれられ電極が差し込まれて生存する新たな種が出現するかもしれません。

他方、わたしどもは国籍も親も選べず親ガチャの偶然性のなか、或る与件のもと身体をかかえた生を授かります。それ故、同じひとは誰もいません。生得的な与件において各人異なりますが、もの心ついたときから一人称の言語を用いる責任主体として誰もが唯一無二の生を引き受けているということ、そこに人生の醍醐味があると言えます。三人称の膨大な情報にかこまれつつ、ひとは心をかかえて宇宙の底が抜けるような悲しみと不安そして天にも昇る喜びを持ちうる不思議なる存在者として、一人称の世界を生きています。皆さんひとりひとりの心がそしてそれ故に人生がなんと君の責任ある自由に委ねられているのです。それも気の狂った為政者がひとりいるだけで、それまで営んできた人生が破壊されてしまうそのような不安定な世界に投げ出されて一人で生きています。わたしどもはこのようなものである人間と自己を一人称と三人称の送り返しのなかで探求せざるをえません。

誰もが産まれた時には死に対して十分に年をとっていますが、わが国における平均寿命としては80年以上生きるそのような状況が出来しています。これは人類の叡智を結集してその都度の課題を克服してきたからです。例えば、ルイ14世のように「朕は国家なり」と司法(裁判)と行政(政策執行)と律法(法制定)を欲しい儘にした封建時代においては、人の生命や人権、即ち生殺与奪の権は君主に帰属していました。今回のウクライナ侵略に見られますように、正義に基づいた法治国家を築くことの重要さをわたしども今リアルタイムに経験しています。人類は生命をかけて秩序ある自由な社会、基本的人権を求めて苦闘してきたのです。

2000年前ナザレのイエスが生まれたころ全地球の人口は2億5千万人でした。紀元1600年頃に5億人、1800年に10億人となりそして1920年には20億人であり、現在約80億人が同じ空のもと同じ時の流れのなかで生活しています。20世紀から今世紀における60億人を超える著しい増加は人類の生存上の普遍的課題である飢餓、感染症、病気、紛争等寿命を縮めるあらゆる課題を克服しての勝利を遂げたことを示しています。紛争による殺戮、暴力も20世紀後半以降減っていると言われています。これは歴史に学び、同じ悲惨な眼に次の世代をあわせはならない、また同じ過ちを二度と繰り返すまいという悔い改めと叡智の結集によると言うことができます。

他方、人口爆発や技術の進展による自然環境の破壊がもたらす新たな問題が発生し、地球と人類の持続可能性が問われています。飢餓や紛争による殺戮、難民の発生さらには地球を何度も破壊してしまうほどの核兵器の開発など、今人類は生存のまったなしの課題を抱えています。

またわたしども先進国の日本に住む者の内面においても、情報の渦、大嵐に翻弄され、落ち着いてひとつのことに取り組むことが難しくなっています。技術文明のリズムが身体を持つわたしどもの生のリズムを支配し、わたしどもは自ら生み出したものにいつのまにか隷属しています。身体の感覚器官を介する直観や身体のアナログ的な或いは定性的な反応はわりきれない不明瞭なものとされがちです。反応の速さが競われ、身体との関連においてある心の成長が抑圧され、偏りへの圧力がかかっています。例えば、レーチェルカーソンはこう警告しています。「子供たちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、私たちの多くは大人になるまえに澄み切った洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしも私が、すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子供に、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けて欲しいと頼むでしょう」(三浦永光『人間存在に内在する宗教性について』p.59(新教出版社 2021))。

大人や社会そして現代の風潮は本来ひとの心に備わっているはずのこの種の驚きの感覚を鈍らせてしまいます。鈍くなり、出来上がったシステムや組織さらには知識の体系に自らを適応させることが大人になることだと考えられています。そのとき、わたしどもは何かを失っていくことについてさえ気づかずに、社会や組織の理(ことわり)、システムに飲み込まれていきます。

わたしどもはただ自然の猛威や世界史の荒波にもまれて海の藻屑と消えていくだけの存在なのでしょうか。人類は自ら制御できない欲望を吟味、反省することなく何らか正当化し科学技術を利用し自然資本を食いつぶし、格差を助長したうえで争により自滅に向かうのでしょうか。10人殺せば極悪人であるが、100万人殺せば英雄になるという何も確かなものがない心を抱えているのでしょうか、それが問われています。パスカルは問ます。「人間とは何という珍奇、妖怪、矛盾の主。宇宙の栄光にして宇宙の廃物、真理の受託者にして曖昧と誤謬のドブ、愚鈍なるみみず、この縺れを誰が解くのか」。君たちは新たにこの問いの前に立たされており、各人はその解答を求められています。俺が私が解いてやる、この気概こそわたしどもに求められています。

 

学寮の存在理由―心の根源的在り方―

 この時代にあって、学寮は皆さんに何を提供できるのでしょうか。まず、生活の基本として寮内のトイレや風呂などを清潔に保ち、バランスのとれた食事を提供することによりみなさんの健康維持に貢献することです。この二年間調理スタッフのご努力により、健康を大きく損なったケースがなかったことは感謝です。また、共同生活において重要なことは、秩序を保つことであり、約束ごとをお互いに守ることにより楽しい快適な生活を共に送ることができます。札幌農学校の校長として赴任したクラーク先生はこの規則遵守についてはただ一言、Be gentlemanと言いました。学寮にあてはめるなら、Be gentleman and be ladyということになるでありましょう。なお、老婆心ながら、皆さんが入寮するとき、誓約書にサインしてもらっています。内容覚えていますか。もう一度確認ください。

第三に、学寮創立の精神の具現化にこそ学寮の存在理由があります。学寮の伝統である心魂(こころ)の探求として、豊かで深い精神性の涵養に貢献することです。自己尊大化、自己の拡張として所謂色、金、名誉と呼ばれる定量的に計測され大きさや量を誇るこの世が求めるところとは異なるものに価値を見出しうるかに挑戦します。これらは成功の分かりやすい規準かもしれませんが、そこには心とその心が宿る生命原理である魂が欠落しています。イエスは言います、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。

 わが国においてキリスト教徒は1パーセントと言われます。この道は神との関係においては「罪」と呼ばれる自分の中にある残念なところを克服しつつ、神と隣人に自分の人生を捧げようとする、狭く細いしかも真っすぐな道なのです。なぜこんな道が2000年も歩まれ続けているかと言えば、心の奥底にこの道を確かだと承認する部位があり、人間の本来性にかなったものだからです。光が差し込み明確に歩むべき道を示し続けるからです。

イエスは言います。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。軛とは牛を二頭平行につなげるものですが、イエスと軛により繋げられ歩むとき、彼の呼吸そして柔和と謙りが体温と共に伝わってきます。この軛という信、信仰という心の根源的な在り方によりイエスと共に歩み始めるとき、心の底に平安と人生の確かさを見出します。信が二番底とでも言うべき心の部位に生起するとき、ひとはその心と身体に秩序を持ちます。

パウロはこの部位を「内なる人間」と呼んでいます。ポテンシャルとして誰もが心の奥底にこの部位を持っていますが、人間的にはなかなか発現されないかそれに気づかないのです。この部位を発見する方法が一つあるとすれば、幼子のように信じることです。そのうえで聖書を読むと力と平安をいただきます。幼子のように神の子であると信じることが難しいということであるなら、そこに至るべく、自らの心が底なしである、確かなものが何もないという空虚さ、苦悩の経験を必要としています。読書会でとりあげた、宇佐美りんの『推し燃ゆ』と遠藤周作の『海と毒薬』において、文学者たちは底なしの心を描き、その克服に苦闘しています。遠藤の『海と毒薬』は良心の発動というものの確かさについて考えたいひとには必読書です。時間の都合でここでは最年少芥川賞作家宇佐美りんの作品を紹介します。

 

『推し燃ゆ』―偶像(idol)崇拝と底なしの心―

『推し燃ゆ』の主人公あかりは5歳のときから、ピーターパンを演じた12歳の真幸(まさき)がアイドルとして成長するその過程を追っかけてきました。その推しのまさきがファンの女性を殴ったことが報道され、SNSが炎上する、物語はそのように始まります。作家はあかりの推しとしての在り方をこう表現しています。(引用です)「アイドルとの関わり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品に興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人・・。あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった」(p.18)。かくしてあかりにおいては「ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聴き取り書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに閉じられて部屋に堆積している」(p.17)。

この解釈し続けるあかりは推しの身体に自らがはいりこみ、推しが見、感じるものを自ら共有したいという欲求につき動かされています。このアイドル、偶像崇拝の背後に、アカリが常にかかえている自らの肉の重さの感覚があります。あかりは自らの肉の重さに慄いています。見学にまわった水泳の授業の描写でこうあります。(引用です)「あたしが重ねて持っているビート板を「ありがとね」と言いながら次々に持っていく女の子たちの頬や二の腕から水が滴り落ち、かわいた淡い色合いのビート板に濃い染みをつくる。肉体は重い。水を跳ね上げる脚も、月ごとに膜が剥がれ落ちる子宮も重い。先生のなかでもずば抜けて若い京子ちゃんは、両腕を脚に見立ててこすり合わせながら、太腿から動かすのだと教えた。たまに足先だけばたつかせる子もいるけどさ、無駄に疲れるだけだからねあんなの」。あかりは身体と離れない自我の重さをいつも感じている。推しに自己を埋没させることにより、この重さから解放され、生の意味を見出している。

その推しが殴打事件を機にアイドルを卒業することになる。追いすがるリポーターの「反省しているんですか」という問いかけへの彼の応答にアカリは意図的なものを感じ取る。作家は描写する(引用です)「振り向いた眼が、一瞬、強烈な感情を見せたように思った。しかしすぐに「まあ」と言った。機材や人を黒い車体に移り込ませて車が走る」。SNSのコメント欄があふれる。(引用です)「反省して戻ってきてほしい。マサキクンいつまでも待ってるよ」「自分が悪いのにああいうところで不機嫌になるあたりね」「不器用だなあ。ちゃんと説明すればいいのに」・・」あかりはこれらに一切同意せず、(引用です)「推しは「まあ」「一応」「とりあえず」という言葉は好きじゃないとファンクラブの会報で答えていたから、あの返答は意図的なものだろう」と言う。そこからアカリは推しの殴ったファンへの愛をかぎつける。

アカリは推しの最後のコンサートに行く。(引用です)「第一部が始まり推しの煽りが聞こえた瞬間から、あたしはひたすら推しの名前を叫び、追うだけの存在になった。一秒一秒、推しと同じように拳を振り上げコールを叫び飛び跳ねていると、推しのおぼれるような息の音があたしののどへ響いて苦しくなる。モニターでだらだら汗を流す推しを見るだけでわき腹から汗が噴き出す。推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを推しが引きずりだす。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした。推しの魂の躍動が愛おしかった。必死になって追い付こうとして躍っている。あたしの魂が愛おしかった。叫べ、叫べ、と推しが全身で語り掛ける。あたしは叫ぶ、渦を巻いていたものが急に解放されてあたりのものをなぎ倒していくように、あたし自身の厄介な命の重さをまるごとぶつけるようにして叫ぶ」(109)。

もちろん、その陶酔の時間は過ぎ去る。(引用です)「推しの歌を永遠にあたしのなかに響かせていたかった。最後の瞬間を見届けて手許に何もなくなってしまったら、この先どうやって過ごしていけばいいのかわからない。推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった」(112)。このように作家はアカリの陶酔と空虚を描いていく。

一足の靴下がベランダに干してあるその光景が最後に描かれます。スクショに移った背景から引退した推しの新居がわれてしまい、アカリはそこにいく。(引用です)「会いたいわけではなかった。突然、右上の部屋のカーテンが寄せられ、ぎゅぎゅ、と音を立てながらベランダの窓が開いた。・・目が合いそうになり、そらした。たまたまとおりかかったふりをして歩き、徐々に速足になって、最後は走った。どの部屋かはわからないし、あの女の人が誰であってもよかった。・・あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった」(121)。

この作品は古典的なテーマを現代的なセッティングのもとで描写したものです。その表現の斬新さにおいて古典的な情熱恋愛を若者の日常の装いのもとに描いています。恋愛感情はamare amabam「わたしは愛することを愛していた」(アウグスティヌス)と古来言われるように、自らの濃密な感情を味わっていたい、その感情の高揚を維持すべく、イメージに集中します。或る女優さんが「恋をしているときの胸のトキメキが好き」と言うように、相手をありのままに受け止め愛しているわけではなく、自らの心臓の鼓動、心拍数を愛しています。そこでは恋愛対象は濃密な感情を生み出す装置として機能しています。だからこそ、何かの幻滅により一気に情熱曲線が下がり覚めてしまいます。

ありのままのマサキを知るべく解釈し続けているあかりはそのようなイメージへの集中とは異なると主張していように見えます。とはいえ、このような解釈を介してマサキの見ているものを見、感じるものを感じたいという思いは恋愛の特徴である一種の自我崩壊と呼ぶことができます。自我が溶けてしまっているところでは抵抗がありませんから何でも赦せてしまう。自らを放棄し、没入そのものにより自ら生息していると言うことができます。この古典的なテーマをとりあげつつ、若い作家の感受性と表現力は読者をひきこむことに成功しています。

ひとはこのように自らを捧げられるものを誰もが求めています。しかし、それは偶像崇拝(idolatory)であってはならないはずです。ルターは「汝が汝自身を寄りかからせているもの、それが汝の神だ」と言いますが、まことの神以外は偶像となります。それは偽りであり空しい信の対象であり、偽りである限り裏切られます。そしてそれは過ぎ去りゆくものです。信の対象、人生を捧げるにたるものは堅固で永続する真理でなければならないはずです。この短い学寮生活において共にこれを探求したいと思います。

 

真理の探究の手がかりとしての古典そしてイエス・キリスト

真理の探求の手法は歴史の審判を経た聖書テクストへのひたすらなる尊敬のもと、ルターが「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」と言うように、正しい理解に集中します。これは内村鑑三や黒崎先生、塚本先生以来の無教会の伝統と言えます。

黒崎先生と学生時代以来の親友で内村の弟子であった塚本虎二は自らのイエス伝研究を通じてこう語りかけます。「後代教会の誤った宗教心がゆがめたり、隠したりしているものを学問の力で取去って、直接ガリラヤの大工の子、イエスの姿を見えるようにしようと努力してきた。―その結果イエスが私達と同じく、完全に人間であることが解った。―ところが一方このようにすっかり人間になったイエスが、他方では今までよりもはっきり神の子の姿をもって私達の前に浮かび出たのである。―どうかただ機械的に、漫然とイエスを神の子と信ずるのでなく、疑わしい所は遠慮なく疑ってもらいたい。そうすると多分、我々と同じにこの地球の上を歩き、空気を吸い、食事をして生きた、あくまでも一人の人間であるイエスに、人類創造以来の凡ての人と違った、この人だけは人間でない、神の子であると言わざるを得ないものが出て来ると思う」(『聖書知識』三一〇号)。

古典classicsとは歴史の審判に耐え、逆に歴史を審判しています。古典がまだ自らに訴えかけないとしたなら、わたしどもはまだその一つの歴史を営んでいる人間になっていないとも言えそうです。当方70年近く生きてきましたが、この数十年間、聖書やアリストテレス等の古典テクストの正しい理解に埋もれてきました。文字通り悪戦苦闘でした。古典の研究を通じて得た人間理解、理論のもとに自らと周囲の人々を実験台として、ひとの心魂の動きを吟味、検証してきました。そして今、人間とは何かという問いに対して、一つの信念を持っています。二千年ものあいだ歴史の審判を経て、しかも今、歴史を審判している、力強く働いて人生を導いてくださる方はイエス・キリストであると信じております。彼は真の人間であり、神の子であると受け止めています。文学者たちも虚無や不安の背後に何か人生に確かのものがあるのかを探求し、登場人物のディーテールを描いていきます。わたしどもは、人間探求の様々な事例に学びながら、とりわけ神と人間を媒介する存在者であると聖書に伝えられたナザレのイエスを共に学んでいきたいと思います。心の奥底にどんなに吟味しても壊れない確かなものを見出しうるなら、これは幸いなことだと思います。以上皆さんの新しい人生への贐の言葉とします。

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2021年度卒寮式式次第

 二〇二一年度卒寮式

 

                         二〇二二年二月十一日土曜日

                         午後二時より 

                           登戸学寮 

式次第

                     司会 結城史音   

  前奏

  讃美歌  五三四番

  聖書朗読  詩篇四六篇

  開会祈禱       結城史音

  理事長挨拶    小島拓人

  来賓祝辞     黒崎稔

  送る言葉     橋本結衣

           柴田真之介  

  卒寮生感話    青野道

           岩田光法

           金道殷

           杉谷魁

           山田聖義

  寮長式辞     千葉惠

  讃美歌  四四〇番

  閉会祈禱     千葉惠

  後奏

 

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『方舟』62号刊行されました(閲覧できます)

 このたび、『方舟』62号が刊行されました。第一回黒崎幸吉賞授賞式、講演会やホームカミングデーの記録、恒例の寮生による寄稿さらには、学寮ゆかりの方々の寄稿等を掲載しています。力作ぞろいで230頁の冊子となりました。

 なお、冊子体にいくつかの誤りがあり訂正させていただきます。

 〇 「目次」4行目 誤り 黒崎幸吉先生語録・・ 正 二文字下げる、〇 「目次」5行目 誤り 第一回黒崎幸吉賞・・ 正 二文字あげ、〇 「目次」12行目 誤り 「ヨーロッパ・・  正 一文字下げ、〇 7頁 12行目 誤り 如何にして此の危機を避け得るでしょうか。それが為には 正 コノ一文削除、 〇 42頁 1行目 誤り 桝形山 正 枡形山、 〇 200頁8行目 誤り どうし  正 どうして、〇 201頁5行目 誤り 産みへ 正 海へ  

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第一回黒崎幸吉賞授賞式・講演会ならびにホームカミングデー録画の配信について

2021年11月20日開催の第一回黒崎幸吉賞授賞式・講演会ならびにホームカミングデーの録画を配信いたします。

ご視聴いただければ幸甚です。視聴希望の方は学寮まで連絡ください。URL及びパスワードをお知らせいたします。

連絡先は

noborito@gakuryo.or.jp

です。

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今井館ニュース50号

登戸学寮

 祝50号!末永く励まし希望の泉であれかし!学寮は新人9人を迎え4月6日にリモート参加のご家族らと入寮式を祝いました。抱負を述べあい皆で新たな旅立ちを分かち合いました。皆すぐに仲良くなりピンポン等に興じ、青春の輝きまっしぐらに其々元気一杯夢に挑戦しています。盛況の黒崎資料室は、朝早く微動だにせず数時間も精密な図面を描き続ける建築学科のラガーマン、音楽理論の学びの後4階自室に戻り燃える緑の山を前に作曲に勤しむ京都ルーツ、カナダ育ちのアーティスト、年四度の試験に立ち向かう医学生等々熱気を帯びています。

 5月末超満月の夜、月蝕を愛でるべく枡形山で小一時間夜風に包まれ仰瞻しました。雲に隠れかなわず、帰りは蛍谷を降って線路沿いのセブンでアイスしました。ひとりが雲の裂け目から赤銅色の月面に気づき、おぼろな輝きのなか、地球の影を10人皆確認できました。共に一事を行うとき、感動を分かち合う、そのような共同生活の喜びの一齣でした。

 毎日オルガン前奏で始まる朝礼拝は「詩篇」ですが、当番は詩篇のメッセージを自らの現実に照らして独創的に話ます。聖書講義や読書会ではSNS等の際限なき比較ではなく、福音が持つ比超級の世界を、競争ではなく敵が友と友となるOne Team、Win-Winの世界を目指しています。地球の裏側の健康が当方の健康につながる運命共同体のこの惑星において、One Health、One Teamの祈りの日々です。

 「かくして、キリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、魂を共にかよわせることによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮するに至るためである」(ピリピ2:1)。

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特集「コロナ禍で学んだこと」『季刊無教会』46号寄稿

御言葉の受肉―不可視なものの可視化

                          千葉 惠

 この二一世紀のパンデミックCovid-19は人類全体で協力して対処すべき人類史的な状況を出来させている。人々は感染者の棒グラフの上下に一喜一憂している。全人類のワクチンの接種以外に(あの豪華な?)日常生活への回復は望めない。今回の相手は肉眼で不可視なため、生存を脅かすものに湧く恐怖は全方位に及ぶものとなる。学生寮の生活において日常交わる人々が恐怖の対象となりえ、相互に疑心暗鬼にさらされる。孫氏の兵法に「敵を知りおのれを知れば百戦危うからず」とあり、正しく恐れるにはウィルスの特徴、振る舞いを熟知するに若くはない。赤外線は熱放射を介してまた物質を突き抜けるニュートリノは地下水槽を介して可視化されるように、将来対話者が陽性か否か可視化されるようになるであろう。人類はこうして課題を克服してきた。とは言え、ウィルスは生物的存在者以上ではなく、人類の壊滅は身体のそれでしかない。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26)。

 今回のパンデミックは、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、われらはひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやる運命共同体であることを伝える。われらは罪を犯し犯されつつ一つの宇宙船に乗り合わせている。「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」(Rom.8:22)。今回この運命共同体は全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を共有した。時代は(ようやく?)疫病、飢饉、貧困等聖書の伝える苦難に追い付いてきている。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Mat.24:12,Luk.21:10)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。

 人類は不可視なものの秩序ある可視化をロゴス(理、言葉)とエルゴン(その働き)の相補性において捉えてきた(例、一オクターブの調和音(合成体)=1:2の弦の比(ロゴス・形相)+空気(質料)[ロゴス上比と空気の分離、今・ここで奏でるエルゴン上の不分離])。生命の設計図としての遺伝子も四つの螺旋的塩基配列を秩序づけ、その情報それ自身は物質ではなくタンパク質合成の理である。先哲によれば、ロゴスとしての形相は生成消滅過程を経ることなく、質料を一なる合成体として働かしめる。今・ここの秩序ある働きは不可視のロゴスの証である。聖書にもこの相補性の事例は豊かであり、エマオ途上の弟子たちは「神とすべての民の前にエルゴン(働き・実践)とロゴス(言葉・理論)において力ある預言者となったナザレのイエス」について語りあった(Luk.24:19、eg.Rom.15:17.2Cor.6:7,1Thes.1:5)。

 不可視なものの最たる方である神は「光あれ」の言葉により宇宙を創造された。そのロゴスが受肉した。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」(Phil.2:6)。

 イエスは山上でモーセ律法の純化により人々の二心の偽りを摘出し、道徳的次元を内側から破ることにより信仰に招いた。そこで彼は言葉の力のみにより道徳、社会、自然、天国と地獄一切を天の父の完全性に秩序づけ、彼はその教えに生きまた死んだ。彼の生涯はその言葉と働きの合致故に偽りなき権威を伴った。科学技術や衣食住であれ、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:33)。イエスはこう語り信仰に招く。人類の第一の課題は「天の父の子」となる信仰により不可視な神との正しい関係を作ることである。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:27)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神の意志として「信の律法」(神が信であるとき、信じるか裏切るか)はモーセの「業の律法」(貪ぼるか貪ぼらないか)より根源的である(Rom.3:19,27)。

 救いそのものがイエスにおいて可視化された。不可視なものの信仰が可視的なものにより確認される。「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への[アブラハム等]先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りにより[先人たちの]諸時代が統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語り]に基づくことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。

 人間のあらゆる肯定的、創造的営みの根源にこの信が位置づけられる。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを要求しているということは全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じる「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」、と(John.3:17)。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。復活は「告白」(Rom.10:9)を伴う信によってのみ突破されうる掌握困難な神の力能の顕われであり、甦りを信じることができるということ、それが喜びである。甦りは再臨による宇宙の完成に向かう。そのエヴィデンスは信に伴い豊かなものとなっていく。

 

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今井館ニュース第49号 登戸学寮

今井館ニュース第49号 2021年4月30日発行 7頁

登戸学寮

 「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。

 枡形山にふりそそぐおだやかな陽光とフレッシュな風、当地は春の息吹につつまれています。卒寮式のあと入寮式のまえ、桜のつぼみ膨らみ新しい学年を始める準備の日々です。学士号取得に伴う5人の卒寮式では遠隔からの画面上のご参列も多くあり、涙あり笑いありの名残惜しい別れのときをもちました。個性に輝く五人組ですが、その温かな一例は杉原千畝記念短歌会、人道大賞のI君による「世の中のいのちの数だけ朝がある茹でた卵がまだ温かい」。前途の幸いを祈りつつ世に放ちました、信じうることの喜びのなかで希望に満ち溢れ、地の塩、世の光たれ、との贐(はなむけ)をそえて(写真)。

 当学寮は19人の新寮生を加えての新米寮長夫婦との新たな船出の一年でした。創設以来の蓄積された先輩方、愛する方々の篤い祈りの羅針盤に導かれ、コロナ感染の暗礁乗り上げを回避し、喜ばしい新天新地に向けてゆっくりと航海を続けています。昨夏に多くの方々のご厚志のもと耐震壁等60周年記念工事がおこなわれ安全、快適となりました。「学寮ニュース」8,9号、「方舟」61号を公に発信し、そこで寮生は若者らしい挑戦の姿を力一杯表現しています。

 授業のオンライン化に伴い学生寮が見直されているなか、毎月の遠隔会議など新たな形での運営母体による寮生の健康を守り、実り豊かな共同生活のヴィジョン、事業計画、管理の最適解の模索は続きます。福音の旗を高く掲げつつ、寮生活が確かな人生の基盤となるよう祈りのなかで新たな春を迎えています。

 

 

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黒崎幸吉著『註解新約聖書』サイト移管について

 このたび、登戸学寮は創設者黒崎幸吉先生の新約聖書註解10巻のWeb版を2008年以来孜々として公開を続けてこられた大島守夫氏から引き継ぐことになりました。新しいサイトは以下の通りですが、大島氏の従前のサイトからも直ちに飛ぶことができます。なお、大島氏は新しいサイトをより良いものとしていくべく、本サイトの維持管理を引き続き担当されます。13年にわたる大島守夫氏の本註解に対する献身に心から感謝と敬意を表しつつ、学寮側担当者をお導きいただきたく願っております。大島氏による黒崎註解Web版立ち上げの経緯については当サイト内の「Web化によせて」(2008年9月)をご覧ください。千葉惠

https://kurosaki-commentary.com/

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2021年度入寮式が行われました (4月11日)

2021年度 登戸学寮入寮式 

                   入寮式式次第

2021年4月11日(日)14:00

登戸学寮

                 司会 伊藤直道

前奏

讃美歌     158

聖書朗読    詩編146篇

開会の祈り    結城史音

挨拶      理事長 小島拓人

来賓祝辞    監事 黒崎稔

新入寮生スピーチ

在寮生から   寮生委員長 土橋奈央

式辞      寮長 千葉惠

讃美歌     533

閉会の祈り   松井共生

後奏

記念写真撮影

 

理事長挨拶

                                 小島拓人学寮理事長

 ・理事長の小島拓人です。

・今年は4月からの新入寮生は9名ですが、皆さん登戸学寮への入寮おめでとうございます。そしてオンラインでご参加頂いている何組ものご家族の方々にもお祝いの言葉を述べさせて頂きます。

・昨年は新型コロナウィルス問題で新入寮生が揃った入寮式の開催は実に11月と大幅に遅れましたが、今年は例年通り4月に皆さんが勢揃いして歓迎会を開催出来ますことは先ずは大変喜ばしいことであります。

・しかしながら、この新型コロナウィルスの問題は全国的な緊急事態宣言解除後も新たな感染の波が押し寄せて来ている模様で、登戸学寮があります神奈川県と近接した東京は明日12日から「まん延防止等重点措置」が適用され解決の展望が良く見えない中にあります。その様な中で、新年度早々大学のキャンパスも依然半ば閉鎖されているところが多く皆さんも大変困難な学生生活をスタートされていることに深くご同情申し上げます。

・しかしながらこうした困難な時代であればこそ、黒崎幸吉先生が企図された登戸学寮というキャンパス外での学生生活の存在価値がこれまで以上に高まっていると認識いたします。登戸学寮は聖書の学びを通して健全なる判断力と確固たる責任感を有する人材の育成を目指しております。そして登戸学寮は寮生の寮外での様々な活動を支援するプログラムを計画しておりますので、皆さん千葉寮長ご夫妻の下、共同生活の場を大いにご活用頂きたく思います。

・今日の世界は対立と分断の中にあります。また社会制度や組織の大きな変革の時代を迎えており、世界全体、社会全体が新しい秩序が求められています。そうした変革の時代の中にあればこそ皆さんのような次代を担う若い方々への期待は大きいのです。そして登戸学寮というキャンパス外の共同生活を通して古典中の古典である聖書の、時代を超えた人間の智を超えた真理の一端を学ぶことを起点として、皆さんの見識が高められることを期待致す次第であります。

・今年の新入寮生歓迎会の開催にあたり、改めて皆さんの入寮をお祝いし、歓迎と期待のことばを申し上げて私の挨拶とさせて頂きます。

 

来賓祝辞

                                  黒崎 稔学寮監事

 皆さん こんにちは! ただいまご紹介戴きました公益財団法人登戸学寮の監事を務めております黒崎です。

 新寮生の皆さんが多くの学生寮の中からこの登戸学寮を選んで戴き大変嬉しく思う次第と共に、皆さんにとっても最良の選択であると思います。

 今年の大学入試はコロナの影響で受験生の皆さんが自宅に籠り勉強する時間が長かった為に結果として非常にレベルの高い競争になったと聞いております。

 その様な厳しい競争を勝ち抜いてきた皆さんですのできっと素晴らしい大学生活を送れると信じております。その大学生活を皆さんは登戸学寮で過ごす事になる訳ですが、寮長や寮長の奥様から学寮の設立の主旨をお聞きになられたと思いますが、登戸学寮は他の学寮とは異なり単に寝る場所や食事を提供するだけではありません。

 学寮の玄関を入られた正面に額が飾ってありますが、生涯を聖書の研究と基督教独立伝道に捧げた私の父(黒崎幸吉)が60数年前に大学教育が学術教育に集中し、人としての教育がなされていない事を憂い、地方から上京して勉学に励む前途有望な大学生にキリスト教精神に基づく精神的教育を施し日本の為そして世界の為に役に立つ人材を育成する場として設立したものです。

 皆様の中には今までにキリスト教に接した方もいらっしゃると思いますがそうで無い方々は是非朝礼や日曜礼拝に積極的に出席戴き聖書に接して下さい。

 また、寮には多くの先輩達が色々の大学で様々な勉強をされておりますし、多彩な趣味を持っておられる方々もおられます。それらの方々と親しく接する事により幅広い知識や教養を身につけて戴ければ登戸学寮における寮生活はきっと豊かなものになるでしょう。

 更に、60年以上の歴史を持つこの学寮では既に600名以上の方々が卒寮し社会の様々な方面で活躍されております。先程ご挨拶された小島理事長も卒寮生の一人ですし、他にも多くの卒寮生がこの学寮を支えて下さっております。皆様も是非卒寮生の方々とも交流を深めて戴きたいと願っております。コロナの蔓延防止と言う課題があるのではっきりとした事は申し上げられませんが、毎年11月に学寮で開催予定のホームカミングデイには卒寮生や登戸学寮に関係する方々も多く参加されますのでそのような機会を積極的に捉えて実社会おける対応力を培って下さい。

 最後になりましたが、皆さん一人一人が十分に健康に留意され明るく元気な学生生活・寮生活を送られる事を願って私のお祝いの言葉とさせて戴きます。

  

式辞

                                   千葉惠学寮長

1.

 9人のみなさん、大学入学そして2年生への進級おめでとうございます。登戸学寮へのご入寮おめでとうございます。小島理事長、黒崎監事そしてオンラインでのご参列の理事・評議員・監事ご一同と共に心から歓迎いたします。

 何らかのご縁で26人の先輩たち、厨房、事務スタッフそして私ども二人とこれから共同の生活を共にすることになりました。どんなドラマがこの学寮での共同生活を通じて待っているのでしょうか、どんな未来が紡がれていくのでしょうか楽しみです。このところ連日、新寮生が正装して大学の入学式参列のため坂を下りていくのを見送りました。二年生たちも正装してやはり嬉しそうに一年遅れの入学式のため坂を下りていきます。式から戻ったひとに愛校心がわいてきたかを聞きますと、「少し」という控えめの応えに内心喜びました。何かのご縁でご自分の所属先となった集団、組織を愛しうることは喜びであると思います。一年生にとっては大人の世界の仲間入りです。新たな世界に汽笛ならして船出です。帆を一杯に張り上げ、南の風に乗っていざ出発です。勉学やスポーツ、芸術そしてバイト活動に、幸多からんことを祈ります。よかったです。昨年来のコロナの忘れがたい状況で、寮生皆さんの学生生活が健康で有意義なものとなるよう祈るばかりです。

 本日オンラインでご参列のご家族様におかれましては、今日まで手塩にかけてお育てになられたご子息、ご息女が大人として自律の生活に向かうそのような一つの転換点、節目を迎えられました。おめでとうございます。これまでの様々な出来事に思いを馳せつつ、安堵とともに一抹の寂しさをも感じておられることでありましょう。

 2.

 この学寮は入寮にあたり作文を課しています。今年は4人が「私の人生の理想」に挑戦し、5人が内村鑑三の『後世への最大遺物』の読書感想文に挑戦しました。両課題ともに自らの心、精神の現在地点が人類史のなかでどこにあるかをはからずも示すものとなっています。ここでは作文を紹介しながら、心の現在地点を確認しあい、約18年間の古き自己の一つの葬式となり新生の誕生日となることを期待して門出を祝いたいと思います。

 現在地点という意味では高校時代は皆さんそれぞれの仕方で受験勉強に取り組みました。わが国においては現代の重要な通過儀礼と言えます。これを正面から引き受け、よくがんばりました。前の勤め先の大学で、1年生に入学後半年して、今受験したらどれだけ得点できるかを聞くと皆さん自信なげに半分くらいと答えます。あれだけ勉強したのに、終わってみると忘れてしまっていることに気づかされます。受験の時は必要に迫られて学習したものの、不必要になり忘れてしまいます。この事実は興味、関心、心に深く刻まれた体験、さらには使命感こそ学習と記憶を蓄積させ思考を刷新、展開させるものであることを示しています。

 大学受験は何故か社会的関心の高いことがらであり、あたかも一生がそれで決まってしまうかの如く語られることもあります。これまでの勉強は知性の基本的な能力である理解力、情報処理能力の迅速さと正確さを養うものであり、人であることの基礎を築く一つの大事な要素ですが、大学入試においてその一要素による選抜が行われざるをえません。その選抜があたかも人間としての格付けであるかのごとく受け止められるなんとも残念な風潮があります。世間的にもてはやされ、羨望や嫉妬のさらには軽蔑の対象にさえなります。多くの人々がそれぞれの仕方でこの問題を乗り越えてきましたが、わたしどもも本日これを皆で乗り越えたいと思います。

 ひとは節目に卒業を迎えますが、昨今はアイドルたちがグループを離れる時「卒業」と言います。先ごろ、二人の寮生からあれほど入れあげていたディズニーに行きたいとはもはや思わなくなったこと、またアイドルのグッズを買わなくともファンでありうると考えるにいたったことを伺いました。それには「卒業おめでとう」と言いました。人生に前と後ろがある限り、ひとは一歩ずつ(望むらくは)前進していきます。人々は多くの仕方で古い自己から卒業してきました。他方、人生に前進も後退もない、ひと各自にそのつど良いと思われるものがそのひとにとって良きものであるという相対主義、刹那主義の主張はやがて虚無主義・ニヒリズムまた人生の傍観者となる冷笑主義・シニシズムに陥ってしまいます。もちろん「前へ進め、前へ進め、だけど前ってどっちだろう」という混乱や懐疑の時期をひとは通ります。その葛藤が前進の鍵を握るのです。諦めずに誠実に自らに向き合っているとき、世間の風潮やひとの評判に左右されることから卒業し、いつも喜びが刷新される新しい自己理解、人間理解に到達することもありましょう。偏差値隷属を克服するには、闘争心ではなく柔和な心が、悪意ではなく善意が、競争ではなく協力が、おのれ一人ではなく共にあることが良きものとなる新たな価値を見出し、人生を新たに理解する視点が必要となります。

 3.

 ここでは時間の制約上内村の『後世の最大遺物』から新しい視点、価値を受け止めた5人の作文を紹介しながら考察します。今から130年前内村による芦ノ湖畔における33歳のときのこの講演において、彼はひとがそこに生を受けた愛する地球と人類に対し、生きたことの証、形見(memento)として金銭や事業、思想などを遺すことは大きな生き甲斐であると述べています。そのうえで、「勇ましい高尚な生涯」こそすべてのひとに遺すことのできる、しかも後世に何ら害悪を与えることのない最大の遺物であると主張します。即ち、一般的には人格の完成を求めることが各人にとって目標となると主張されています。

 内村は後世つまりわたしどもが死んでしまった地点を基準点にして、「自分は後世に何を遺せるのであろうか?」という問いのもとに、次の世代の眼差しにより自らの人生を逆方向に考察し、位置づけています。後世のひとはわたしの人生をどう見るだろうかという問いでもあり、現在の自己中心的な視点から離れることだと言えます。Nさんはこう書いています。「今まで自分が何かを遺して死にたいと思うことはほとんどなかったが、作者[内村]の「われわれが死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたい」という意見には非常に感銘を受けた。後世への遺物は自分の利益のためではなく、自分がこれまで多くの人々に助けられてきたことを今度は自分が後世に生きる人々を助けるために遺していくものであることだと気が付いた。今までは誰かのために尽くすという言葉の真意を理解していなかったが、この世界が知り合いだけでなく見ず知らずの人々の善意によってより善くなっているということを考えると自分にも後世への遺物が必要であると確信した」。またZさんはこう書いています。「「この日本を少しなりとも善くして逝きたい」というような冒頭の熱い文があることで、自分の気持ちも熱くなった」。これなのです。視点を変えることによって人生と世界が或る感情の変化を伴い異なって見えてくるのです。

 このように今から一世紀以上前のこの夏期講習会講演は後世の多くの人々に志を与えました。一昨年アフガニスタンで銃弾に倒れた医者井戸を掘るの中村哲医師もこの本に触発されたと述懐しています。たまたまこの世界に叡知体として生まれてきた皆さんは問われています、後世に何を遺していくのかと。聖書は永続するものは支配することからも支配されることからも唯一自由な心魂において生起する我と汝の等しさとしての愛だと言います。

 わたしどもは現在太陽王ルイ14世が受けることのできなかった医療を受けることができます。遠くない先にウィルスが対話者間で可視化され、がんのワクチンもできることでしょう。このように人類は連綿として人類史的な展開のなかで課題を克服してきているのです。先日生物学の読書会で「チャンスは準備された心に降り立つChance favors the prepared mind」というパスツールの言葉に出会いました。ノーベル賞と言わずとも、自らの課題に誠実に向き合い心の準備に余念がないとき、自分なりの解決案に出会う幸運に恵まれることもあるでしょう。ひとはそれを「セレンディピティ」とか「叡知(ヌース)」の発動と呼んできました。このひらめきは見えない理(ロゴス・ことわり)に「ヒットするかヒットしないか」つまり対象に当たっており真であるか空振り無知であるかのいずれかであり、その限りで間違う、偽(いつわる)可能性がないとアリストテレスやパウロにより言われていました。そのようなコンピューターの検索に対応する認知機能が人に備わっていることが既に二千年以上前に知られていたのです。これは成功した地点から語られる知識の一つの種類です。

 真理と偽りの判別に関わる知識には五種類あり、「叡知(ヌース)」と呼ばれる不可視な対象にヒットするこの機能はその一つです。他に、ひとは行為を選択しながら生きていますが、その行為が善か悪かを知る認知能力は「実践知」や「賢慮(プロネーシス)」と呼ばれます。これは心魂の判断は真偽にかかわる認知的なものと善悪に関わる人格的なものの総合的な知識として行為の選択に関わります。人類は賢者(sage)と聖者(saint)と特徴づけられる心魂の二つの卓越性・有徳性をめぐってそれを総合する課題に取り組んできました。ものが善く見える認知的に明晰な賢者と正義や憐み、慈しみなどの人格的な聖者、これらの二つの有徳性の総合こそ、人間として優れていること、人生の目標だと捉えられてきました。

 人間は身体を持つことにより、身体的反応・受動(パトスpassive)としての感情や欲求が自然に湧いてきます。感情や欲求は選び取ることはできず怒ると赤くなったり、恐れると青ざめたり身体に変化がおきます。それがはからずもそのひとの心魂の実力、人格的態勢(かまえ)を明らかにしていると言われます。人格的に有徳なひとは喜怒哀楽などの「パトスに対し良い心の態勢にある者」だとされます。怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが自然に湧いてきて、その感情を伴い等しさを配分できる者が正しい者だとされます。勇敢なひとは恐れに対し、節度あるひとは快楽というパトスに対し良い態勢にあります。ひとはそれぞれの行為の選択において葛藤を伴う場合にはまだ有徳とは言えず、ものごとが冷静に善く見えており、どんなに犠牲を払おうとも、その行為を選択することが最善であるという判断に到達している者が「実践知者(プロニモス)」であり、その認識に身体的な喜びを伴いつつ一つの最善の行為を遂行します。例えばソクラテスは毒人参を飲み、イエスは十字架につきました。ともあれ、人類は心魂の在り方として真理と虚偽の識別と、善と悪の識別のうえで、事実と価値の総合を企ててきたことを覚えておいてほしいと思います。

 4.

 高校時代はこれまで何千年の知の蓄積の学習に専心してきました。少し気障に言えば皆さんは高校時代には百点しか取らせてもらえませんでした。しかし、君が新たな知見を得たり英雄となった場合には、それが人類の共有財産として教科書に記され、次世代の高校生に今度は百点を取らせる立場になります。またこれまでは同年齢の同等の教育を受けたひとびととのあいだの相対的な競争であり、少し皮肉に言えば予め輪切りのように囲い込まれた者同士、勝てる相手とだけのどんぐりの背比べをしてきました。I君は書いています、「漠然とした夢をもち、皆が行くからと、イワシの群れのように私も大学へ進学することを決めた」と。この日本における環境の霊(genius loci)にそまりながら皆さんは今日まで来ました。自らの現在地点を人間の探求を通じてより広く深い視点から新たに位置付けることが求められています。

 そして今人類は生態系、気候変動、紛争、貧困、疫病等様々な問題、窮境に囲まれており、若者たちにより解を見いだされるのを待っています。それがどんなに個人的な問いであったとしても所謂問題解決型の学問が今始まったのです。そういう大海原に飛び込んだのです。そのこと自体を祝します。もちろんそのためには指導者のもとで長い訓練を積まねばなりませんが、基本的には皆さんの心がけにかかっているのです。志のあるところそこでは新たな問いを見出し解決に向かいます。Yさんは「内村は『源氏物語』を批判しているが、私はこの作品も世に人の気持ちを訴えた文学の一つだと思う」と述べ、六条の御息所を例に挙げ、紫式部について「怨霊になることでしか気持ちを表明できないような、無視されていたその時代の女性の気持ちに寄り添い、代弁する役割を担っていた」と理解しています。文学は心の探求なのです。

 ひとはそれぞれのっぴきならない現実をもちます。虐げられた人々、戦争や自然災害などで苦しむひと、ご家庭の不幸、また人生になんの確かさもないという実存の不安、主観的にはのっぴきならないことが何もないということのっぴきならなさ、そのような窮境を人類は何らかの仕方で克服しようと努力してきました。みなさんは、今ここで呼吸をするとき、人類未踏のことを行っています。皆さんはその歴史の最先端におり、次の世代のために自らにとって重要と思われる問いを探求し、克服する視点を持つとき、広い視野の中で現実を変革していくのです。

 高校までは答えが一択で与えられているなかでの正解を導きだすそのような敷かれたレールを走っていました。よく走りぬきました。これからは自分の足で立って、自ら世界の真理、真相を探求し、善悪を判断していくことが求められています。或る体験至上主義者がいました。そのひとは殺人以外すべてやったと嘯いていました。君たちの中で誰かひととおり体験しなれば、人生が何であり、何に価値があるかわからないではないかというひとがいるかもしれません。沸騰したやかんは触れずにも火傷を予見出来そうなものですが、そう考えるひとはそれをやってみるしかないでありましょう。あまり他人に迷惑をかけずに、かすり傷で済むことを祈るばかりです。たとえ放蕩息子のようになってしまっても、オセロの黒石、黒歴史であったものが一気に白石に変わる恩恵をも人類は経験してきました。聖書によれば、「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)とあります。

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 もう一点皆さんの注意を引いた内村の議論は金や事業そして思想も重要な遺物であるが、そのなかで最大なものは「勇ましい高尚な生涯」であるという主張です。Iさんが「私はこういった類の本が苦手である」と書いていますが、おそらくその背後の理解としてこの種の主張は各人異なる理解に帰するのであり、数学のように明確な解をえることができないという想定があると思われます。ただIさんは読み終わって「自分の知らなかった世界に触れることの面白さ」に言及しています。よかったです。

 またNさんは続けます。「二つ目は、後世への最大遺物は「勇ましい高尚なる生涯」であり、これは誰でも遺すことができるということだ。私は・・現時点で後世に遺せる物はなく将来的にも厳しいのではないかと感じていた。・・しかし、[著者内村による]「われわれの生涯はけっして五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水辺(みずべ)に植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものである」という箇所を読み、自分は社会全体のある小さな一部分を担っており、その存在はたとえ小さくても全体につながっているということに気が付いた。・・より善い後世のために自分の生涯をどのように送るべきかよく考え、誠実に生きていきたい」。アーメンです。

 なぜ勇ましい高尚な生涯が最大の遺物と呼ばれうるのでしょうか。なぜひとは道徳的でなければならないのでしょうか。Why be moral? 聖書的には明確であり、万物の創造者である神が自らに似せて人類を造り、その神が信に基づき正義であり、愛であり人格的に十全であるからです。この基本理解のもとに、内村は勇ましい高尚な生涯とは誰もが遺そうと思えば遺せる善きものであり、何ら害悪のないものであるからこそ、最大であると主張します。この主張の背後に、人間が人間である限り共有しうる心魂(こころ)というものがあり、ひとは何をしていてもその心魂による自己理解、世界理解を一挙手一投足に反映させており、どのような境遇におかれても心がけ次第でわれらの生はいかようにもなるという前提があります。ひとは誰もが親を選べないことそして死ぬこと、そこに平等性がありまた人生の醍醐味があるのです。

 誰にとっても最も重要なはずの心魂が腐っていては何も良き果実はうまれません。だからこそ、心魂とそのケア、耕作(cultus animi)(キケロ)が最も重要であるという理解がこの主張の背後にあります。聖書によれば、「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの心魂が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの心魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。ひとは何をしていても、「そうするお前は何者か?」と問われています。この問いに対して聖書では「汝の宝のあるところ、汝の心もある」(Mat.6:21)と応答されています。

 本当に大切なもの、宝とは何でしょうか。聖書的には信仰により神との正しい関係を築き、互いに愛することを通じて永遠の生命をいただくことです。この争いと競争の世界にあって互いに愛し合うことそれが後世への最大遺物です。人間的には信仰の強い弱いがあるでしょうし、司法上の量刑が示すようにより悪い人間もいましょう。この世の事例である限り比較級で処理される可能性に常にさらされますが、イエスの良き羊飼いの譬えにあるように、一匹の迷える羊を探すべく、羊飼いは九十九匹をおいて探しに行きます。「汝らのあいだで誰か百匹の羊を持っておりそしてその一匹を見失ったとき、荒野に九十九匹を残して失われた羊を見つけるまでそれを尋ね歩かない者がいるか。見つけたなら喜びその羊を自らの肩にかけそして家に友人たちと隣人たちを集めて言うであろう、「わたしとともに喜んでください、わたしはわが失われた羊を見いだしたのだから」」(Luk.15:4-6)。

 たとえ99に下十桁に0がつくほど羊を所有する富裕な羊飼いがいたとして、羊飼いはそれらをさしおいて迷える一匹を探すでしょう。イエスは言います。「わたしは良き羊飼いである。良き羊飼いは自らの魂を羊たちのために置く」(John.10:11)。どんなに羊の数が増えてもこう語られるであろうという信、それが比較を拒絶する神の愛、恩恵の端的性を示します。そこではいかなる種類の比較、競争からも自由です。パウロは「汝らのなかで嫉妬と競争心があるところでは、汝らは肉的でありまた人間に即して歩んでいるのではないか」と詰問します(1Cor.3:3)。嫉妬と競争心は表裏の関係にあります。所謂勝者はますます競争的となりより多くを得ようとし、敗者は卑屈となり強者への嫉妬に駆られます。そこには比較級の世界しか存在しないのです。比較を超える比級の世界を神の愛がもたらしたのです。「神は独子を賜うほどにこの世界を愛された」(John.3:18)。この比超級の基盤における毎日の心魂の刷新のもとに、比較の世界であらざるをえないこの世にあって後世の人々のために勉学、芸術、スポーツそして経済活動に従事するとき、良き実りがもたらされることでありましょう。

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 内村は講演を「あの人はこの世の中に活きている間、真面目なる生涯を送ったと言うことを後世の人に遺したいと思います」と締めくくっています。気にかかっていた過去や比較に引きずられるのではなく、たとえ、それが自分なりの小さな一歩の前進だったとしても、景色がかわってくることでしょう。かつて見えなかったものが見えてくるのです。パウロは言います。「見よ古きは過ぎ去った、あらゆるものが新しくなった」(2Cor.5:17)。心魂の窓を開け放ち、和紙が水を吸収するように世界を冷静に観察学習し、そして人類の幸福のためにご自身の心魂の探求を通じて世界の真善美の探究に進んでゆきましょう。その鍛錬の場としての登戸学寮入寮を心からお祝いします。

 

 

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学寮を360°パノラマ写真でご覧ください

 このたび、360°カメラで写真を追加しました。写真を回転させていろいろな角度から学寮をご覧いただけます。お勧めは屋上からの枡形山の春の木々と富士山の眺望です。「入寮案内」のコラムからお入りください。

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「方舟」61号(学寮年誌)刊行(2021年1月)

 「方舟」61号送付のご挨拶に寄せて―パンデミックのただなかに屹立する山上の説教―

 「汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか。空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養っていたまう。・・野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない。だがわたしは汝らに言う、ソロモンでさえ彼の一切の栄華のなかで百合たちのひとつほどに着飾ってはいなかった。しかし、もし神が今日生えており明日炉にくべられる野の草をこのように着飾ってくださるなら、はるかに一層汝らを着飾ってくださるのではないか、信小さき者たちよ。・・まず神の国とその義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。だから、汝らは明日のことを思い煩うな、明日は自らを煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(Mat.6:25-34)。

 昨年来の大嵐のなかいかがお過ごしにていらっしゃいますでしょうか。お守りのうちにお健やかにお過ごしでいらっしゃいますように。登戸学寮をいつもお支えお導き下さり、ありがとうございます。心から御礼申し上げます。ここに創設以来の寮生文集年誌「方舟(はこぶね)」61号をお送りします。学寮の事情は年毎に異なりますが、今年度はオンライン授業という前代未聞の状況のなかで若者たちは共同生活を通じての自らの現在地点を記しています。卒寮生各位におかれましては、ご自身の学寮時代を思い出すよすがとして、また寮生各位におかれてはいつか読み返す時、自らの前進を確認できる一つの基点となりますよう願っております。歴代寮生のご家族の皆様そして学寮に思いをお寄せくださる皆様には、近況報告そして日頃のお支えに対する感謝の徴として本誌をお受け止めいただければまことに幸甚に存じます。

 おかげ様にて、日増しに強まる嵐のなか、学寮は護られて新たな航海を続けております。創設時の黒崎幸吉先生の篤い祈りに呼応するように、学寮に何らか関わる多くの方々の今日に至る篤い祈りによって護られていますことを、この学寮が枡形山に囲まれ護られているように感じるその感覚とともに、日々新たにいたしております。「天に登る戸」(黒崎先生)としての学寮の使命を新たに受け止めております。

 世界と日本は苦難のただなかにあります。近年、東日本大震災、福島原発事故そして今回のパンデミック等に、何か時代は聖書的な人間理解に追い付いてきたと感じます。人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等の制度化、律法化のもとに位置付け、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証でありましょう。実際、医療の進歩にこそこの苦境からの脱出の光明を見ます。しかし、これらは心魂の最も根底に成立する神との正しい交わりに頼らずにすむシステムの構築に向かうとき、言わば肉を厚くし、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされています。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの理解する公平さ、技術革新、効率性等の名のもとに、この同胞である人類、自然、惑星全体を考慮することなしに、自らの隠れた欲望、自己利益を正当化するシステムの作成に向かう傾向にあります。風土病の拡大や気候変動がその一例となるのではないでしょうか。

 21世紀のパンデミックCovid-19は、聖書的には人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えています。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言います(Rom.8:22-23)。この疫病の蔓延は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意しています。疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のもと国際関係の緊張や戦争に至ることでありましょう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言します、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、苦難よ、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。彼はこの終末預言の警告のもとに人類を救いだすべく十字架まで信の従順を貫きました。

 銀河のさらには宇宙全体のいつの日かの崩壊は人類の知性により或る程度予想されていますが、イエスのこれらの預言によりそのような自然事象さえも、神による宇宙の創造から救済そして新天新地の創造にいたる神の歴史の中に位置付けるかが問われています。そのスケールを人類は考慮にいれることができるのでしょうか。肉の欲につけこみ誘い、ひととひととの関係を引き裂くものは擬人化される「罪」と呼ばれますが、その罪に同意する仕方でひとが「自らの腹に仕え」、自らの腹を神とし「地上のものごとを思慮」するとき、そのひとに「罪が巣食う」とあります(Rom. 7:7-25,16:18,Phil.3:19)。ヴィジョンを失い矮小な目先のことに捉われてしまいます。常に心の刷新により目覚めていることが求められます。

 イエスは山上の説教において聖霊の賦与や奇跡に訴えることなしに、ただ良心に訴え言葉の力だけでモーセ律法の純化、内面化によりひとびとの偽りを摘出します。道徳的次元を内側から破りでて、「天の父の子となる」よう信仰に招きます。この純化に耐えられず、しかも信に至らず、人類の歴史は心情倫理と責任倫理をわけ、後者の視点から社会の秩序を守る制度を充実させてきました。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は正当防衛を不可能にするため、個人の心の在り方として賞賛しても政治や公共は到底山上の説教に与することはできないと主張されます (Mat.ch.5-7)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく「目には目を」の比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになります。ひとの良心はそのような二心に満足できないのです。福音における神の憐みへの根源的な信に基づく正義・義認のみが良心を宥めます。

 イエスはご自身の言葉と働きにおいて福音を持ち運びながらモーセ律法を含め生の一切を福音に秩序づけています。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられます。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう」(6:32)。そこでは、制度、技術そして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるでありましょう。キリストにあって憐み深い神を信じることによる神との正しい関係にこそ、パンデミックに負けない平安と希望がわきます。

 登戸学寮はこのようなヴィジョンと使命のもとに建てられたのだと受け止めます。このような海図なき時代にあって、時代の徴を正しくつかみ地の塩、世の光としての役割を少しでも担いえますなら、幸甚に存じます。今後とも困難が続きます。創設以来の寮生の皆様、そのご家族の皆様、学寮に心をお寄せくださる皆様のご健勝とご平安を心からお祈り申し上げます。今後とも学寮とのお交わりを賜りますなら幸甚に存じます。 

 2021年1月24日                              登戸学寮寮長 千葉 惠

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